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大館鳳鳴・高橋校長、観客席で感無量 100年前の校長に報告

2011年3月24日9時23分

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写真:開会式で、グラウンドに立つ大館鳳鳴の選手を見つめる高橋充校長=阪神甲子園球場拡大開会式で、グラウンドに立つ大館鳳鳴の選手を見つめる高橋充校長=阪神甲子園球場

 拝啓 中馬庚(ちゅうまん・かなえ)先生。

 今、甲子園の観客席で、大館鳳鳴野球部の雄姿を見ています。グラウンドに立つ選手の姿は、とても頼もしく映ります。学校創立から113年、中馬先生が第7代校長として赴任して、もうすぐ100年です。大会は、東日本大震災という未曽有の大災害の中での開催になりました。大会に出場すべきなのか。私自身、大いに悩みました。でも、あこがれの甲子園出場を初めてつかみ取った選手の気持ちも大切にしてあげたかった。きっと全員が、被災者の人々を励ます懸命のプレーを見せてくれると信じています。(大館鳳鳴高校第40代校長・高橋充)

   ◇   ◇

 高橋さんは60歳。今月で定年退職する。大館鳳鳴は母校であり、大学卒業後、初めて勤めた学校であり、教育現場を去る場にもなった。

 校長として鳳鳴に赴任したのが3年前。それから全国に16あるOB会をまわった。「いつ甲子園に行くのか」「私の生きているうちに」「息子が野球部」。どこへ行っても甲子園出場を心待ちにしている卒業生がいた。勢い余って「甲子園出場を実現します」と答えてしまったこともある。かけられる言葉は、重荷よりも心が温められた。

 21世紀枠からの出場決定の電話を校長室で受け取ったのは1月28日。「私だけでなく、生徒、OB、地域のみなさんがずっと望んでいたこと。うれしかった」

 もともとバレーボールの選手でスポーツ好きだが、今年度は、県高野連副会長などを務め、野球部の試合をみる機会が多くなった。「素人目だけど選手が走り、球を打ち取る姿を見て、十分に力を持っていると感じていた」。そして昨秋の県大会で優勝、東北大会に出場した。

 学校の会議室に、歴代校長の写真が並ぶ。その一つに中馬庚氏の肖像がある。

 実は中馬氏のことを、校長になるまで知らなかった。「野球」の名付け親。「こんなすごい人が、校長をやっていたのか」と思った。中馬氏が校長になったのは1912年。来年100年になる。不思議な縁を感じた。そして、生徒が最後の最後に、自分に「甲子園出場」という大きな贈り物をくれた。「本当に幸せ者だと思っています」

 ところが、選手たちが大阪に出発する前日の3月11日午後2時46分、東日本を大地震が襲う。校長室で大きな揺れを感じた。

 学校には、出場に対する電話や手紙が10件以上届いた。「辞退すべきだ」「全校応援をやめた方がいい」「高校野球で励まされるなんて、被災地にそんな余裕はない」という声。一方で「みんなで甲子園に行って応援すればいい」という意見もあった。高橋さんは「どれも好意があっての励ましの言葉だと感じた」。全校応援について、全生徒で話し合わせることにした。賛成と反対が半々だった。高橋さんは最後に「やめる」という決断をした。

 開会式。高橋さんは、ベンチ入りできなかった選手や保護者とスタンドにいた。外野に整列する選手を眺めながら、時折笑顔を見せた。球場に「大館鳳鳴」のアナウンスが流れ、選手が前進すると、立ち上がって拍手を送った。「堂々としていて立派。いつもより大きく見えました」

   ◇   ◇

 中馬庚(1870〜1932) 鹿児島県生まれ。旧制第一高等学校時代は二塁手として活躍、東京帝国大学進学後もコーチ、監督として後輩を指導した。大学在学中の1894年に書いた第一高等学校の「野球部史」で、初めて「ベースボール」を「野球」と訳した。97年には日本で最初の野球専門書「野球」を執筆。1970年に野球殿堂入り。教育者としても知られ、旧制新潟県糸魚川、新潟中学校、そして大館中学校(大館鳳鳴)で1912年10月から2年3カ月、校長を務めた。

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