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愛知BEST GAME SELECTION
1977年第59回決勝
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1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 計 東邦 0 1 0 0 0 0 0 0 0 0 1 東洋大姫路兵庫 0 0 0 1 0 0 0 0 0 3 4 -
東邦のバンビ、甲子園を魅了
1―1の熱戦は、延長十回2死一、二塁から東邦のバンビこと坂本が決勝では大会史上初となるサヨナラ本塁打を浴びて幕切れ
甲子園1度だけだったバンビ「あの試合は人生の分岐点」
2018年7月6日13時49分
(1977年決勝 東邦1―4東洋大姫路)
たった3週間の出来事が、当時15歳だった少年の人生を大きく変えた。「甲子園入りし、親元をそれだけの期間離れるのも初めてだった。決勝が終われば家に帰れる、と思っていました。それだけ子どもだった」。現在、名古屋市の鉄鋼・機械商社「岡谷鋼機」に勤める坂本佳一(よしかず)(56)は41年前の夏を思い出す。
「バンビ」のあだ名は大会中についた。細長い首、きゃしゃな体。「ひ弱いイメージのニックネームで恥ずかしい、という思いがありました」。しかし、投球内容はたくましかった。硬式球を握ってわずか4カ月の1年生は直球とスライダーを武器に、初戦(2回戦)の高松商(香川)を5安打2失点に抑え、続く黒沢尻工(岩手)、熊本工を連続完封して4強入り。準決勝では強打の大鉄(大阪)を3失点でしのいで東洋大姫路(兵庫)との決勝へ進んだ。
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「甲子園で一投一打、自分が実際に投げたとか打ったとか、暑かったとか、その辺の記憶があまりなくて」。覚えているのは高松商戦での1球目。「ストライクがとれたことは鮮明に覚えている」。それだけ無欲で投げていた、ということだろう。決勝でも九回まで、味方の失策による1失点で抑えていた。
3年生捕手大矢正成(JR東海元監督)のサインに首を振ることなく投げ続けた。そんな坂本が甲子園でただ一度、自分の意見を言った場面がある。それが、十回裏、2死二塁で3番松本正志(現オリックス1軍用具担当)を迎えた時だ。大矢がタイムをとってマウンドに向かうと、坂本は「勝負したい」との意思を示した。ただ、1球目が内角にはずれて結局は敬遠の四球。三塁を守っていた主将の森田泰弘(現東邦監督)は「えっ敬遠か、と思った。その後の結果を見て言うんじゃないけれど、松本には(打つ)雰囲気がなかった」と振り返る。対して、次打者の主将安井浩二には「前の打席から俺が決めてやる、という強いものが出ていました」。
2死一、二塁で4番安井を迎える。坂本が「あの1球が勝敗を決めた」と話すのが2ボール1ストライクからの4球目。外角のスライダーがわずかに外れた。「切れのいいスライダーだった。いいボールを投げ過ぎちゃった。適当なボールだったら打ち損じてくれたかもしれない。あれを見逃されたというのは安井さんの勝ちだったんでしょう」と坂本。安井は「手が出なかったというのが正しいくらいいい球だった。あれが結構分かれ目ですよね」。
坂本がこの日投じた158球目は、外角低めを狙った直球が真ん中高めに浮いた。安井はフルスイングでその球をはじき返した。「少し差し込まれているんですよね。自分の意識としてはセンター前ヒット。でもああいう場面で予想以上に力が出て、強振できた」と安井は言う。打球は右翼ラッキーゾーンではずんだ。大会史上、ただ1本だけの決勝のサヨナラ本塁打となった。
坂本にとってはこれが甲子園で投げた最後の1球になった。1年生で活躍した球児といえば、荒木大輔(早稲田実)や桑田真澄、清原和博(PL学園)。「彼らは5回連続で甲子園に出た。そこが私とは違うところかなと思う」。その言葉には、1年生で脚光を浴び、注目され続けた苦しみが透けて見えた。「私生活を含めて常にいい子でいないといけない、と思っていた。普通の高校生活を送ってみたかったという気持ちもあったけれど、何かあると、あの時の坂本と言われてしまうし……」
坂本は法大、日本鋼管でも満足な成績を残せなかったが、野球とのつながりを断ったことはない。NHKで愛知大会を解説し、甲子園でのイベントにも姿を見せる。「バンビ、バンビって年配の方に言われると、いい大人なんですから、と思うけれど、当時を知っている人にとってはいつまで経ってもバンビなんですよね。あの試合は人生の分岐点。自分の歩むべき先を教えてくれた」(上山浩也、堀川貴弘)