(1989年準々決勝 仙台育英10―2上宮)

 「この試合、勝った。それくらいの気持ちでしたね」。1989年8月20日。71回全国選手権大会準々決勝は、5万5千人の観客が見守る中で行われた。上宮(大阪)を相手に無失点で滑り出した仙台育英(宮城)のエース・大越基(47)は、叫びながら一塁側ベンチに引き上げた。

 一回2死三塁、打席には後に巨人で活躍した4番の元木大介(46)。大越は外に逃げるスライダーを2球続けて追い込む。内角高めのボールになる直球を挟み、再び内角の直球。狙い通りの三ゴロに仕留めた。

 29年が経とうというのに、大越はこの時の4球を鮮明に覚えている。「ここが勝負どころだと思ったから。磨いてきたボールで元木にぶつかっていった」

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 両校にとって、因縁の対決だった。この年の4月、61回選抜大会準々決勝で顔を合わせ、元木には2ランを浴び、2―5で敗れた。元木のほか、中日入りした種田仁(46)らもおり、最強とさえ言われた上宮打線。大越は点差以上に、力の差を感じていた。

 「内角は全て左翼席に持って行かれると思うほど、元木には懐の深さを感じた。12点くらい取られたんじゃないかと思うほど、圧倒された。だから、選抜から帰る新幹線の中では、上宮を抑えるための練習をすることしか頭になかった」

 徹底的に磨きをかけたのが内角への直球だ。グラウンドの吸水で使うスポンジと捕手用の装具を着けた後輩が、毎日のようにブルペンで元木と同じ右打席に立ってくれた。大越は器用ではなかったから、何度も後輩の体に当てながら、指先に感覚を染みこませていった。

 特訓の日々が、雪辱を期した舞台の出だしで生きた。ただ、2点リードで迎えた六回2死一塁では、元木に一塁線を破る痛烈な二塁打を許している。外角を狙った直球がシュート回転して真ん中に入ったからだ。

 これには明確な理由がある。大越が、いつもよりも少しだけ腕を寝かせるようにして投じた1球だったのだ。

 「四回の打席で真っすぐを完璧に捉えられた。たまたま遊撃手の正面に転がったからアウトを取れたけど、そのイメージがあったから、とっさに横手投げにしてみようと」。奇策は裏目に出て、二、三塁と傷口を広げた。敬遠で塁を埋めると、最後は6番打者をベンチのサインで投じたスライダーで二ゴロとし、難を逃れた。

 これで流れを引き寄せた仙台育英は直後の七回の攻撃で、2死から8連打が飛び出し7得点。大越は八回に2ランを浴びたが完投。10―2で勝者となった。

 大会屈指の強打者を大会屈指の本格右腕が抑え、東北勢初の優勝も見えてきた――。周囲が描くサクセスストーリーの主人公は、しかし、むなしさにさいなまれていた。準々決勝を終えた夜、大越は宿舎のトイレの個室にこもった。

 「ないんですよ、目標が。上宮に勝ちたい、それだけでやってきた。次は何をめざせばいいんだろうって。決勝のマウンドに立つなんて目標、持っていなかったから」

 それでも、準決勝で尽誠学園(香川)を延長の末に3―2で下し、宮城勢で初めて決勝の舞台に立った。帝京(東京)との決勝は延長十回までもつれての0―2。今も、野球ファンの間で語り継がれる名勝負だ。

 決勝を終えた大越は、ベンチ前ではなく、マウンドで記念の土を集めた。そして、特訓の日々を送った学校のブルペンにまいたという。後輩たちに優勝してほしいという思いを込めてのことだった。

 「選抜で上宮打線と出会えたことが自分を高めてくれ、あの決勝のマウンドでは、誰もが見られるわけではない景色を見た。あの夏は、財産ですよ」

 大越はプロ野球のダイエー(現ソフトバンク)でのプレーを経て、現在は早鞆(山口)で監督を務める。2012年の選抜大会には出場したが、夏の甲子園にはあと一歩届かない。「あの甲子園で、部員たちを戦わせてあげたいんです」。その言葉は、力強かった。

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 おおこし・もとい 1971年、宮城県生まれ。早大中退後、92年に米1Aサリナスへ。93年にドラフト1位でダイエー(現ソフトバンク)に入団。2003年に引退し、09年から山口・早鞆高の監督を務める。