(2004年決勝 駒大苫小牧13―10済美)

 甲子園で優勝するイメージだけは持とうと努めてきた。胴上げの練習も一度だけした。それが、現実になる。2004年8月22日。駒大苫小牧、3点リードの九回。済美(愛媛)の4番・鵜久森淳志が放った打球は、二塁後方へ上がった。

 主将で遊撃手だった佐々木孝介は「二塁手の林(裕也)が、気を使ってくれたと思うんです。2人で追っていたけど、林が座って。『孝介さん、捕ってください』って感じで指さしたので」。ボールが落ちてくる。捕れば、優勝だ。「長く感じました」

 試合は序盤から動いた。先発の岩田聖司が、二回途中で降板。左手中指の皮がむけていた。交代した鈴木康仁は、「香田(誉士史)監督から、『やばそうだな、と自分で感じたら準備しておけ』といつも言われていた」。岩田の指の状態も把握したうえで、一回から肩をつくっていた。

 済美は初出場ながら、同年春の選抜大会を強打で制し、史上初の「初出場で春夏連覇」に王手をかけていた。鈴木も、食い止められない。しかし、駒大苫小牧の打線は、どんなに点を取られても、取り返した。

 象徴的だったのが、3点を追う六回無死一塁、捕手・糸屋義典の打席だ。選手全員が、監督のサインに目を疑った。糸屋も驚いた。「『おお、打っていいんだ』って。無死一塁で、バントのサイン以外、見たことなかったから」

 香田(現・西部ガス監督)は「直感でした」と振り返る。カウント1ボールから、糸屋の放った打球は左中間席へ飛び込んだ。さらに後続からも適時打が飛び出し、追いついた。「ここで一気にいったのが、勝ちにつながったと、今は思います」。社会人野球の強豪、東芝に進んだ林も、試合のポイントに挙げる果敢な攻めだ。

2004年のできごと

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 04年の駒大苫小牧は、「1勝」が最大の目標だった。前年夏の1回戦、四回途中まで倉敷工(岡山)を8―0でリードしながら、降雨ノーゲーム。翌日の再試合で敗戦、という悔しさを味わったからだ。

 戻ってきた甲子園。初戦で佐世保実(長崎)を7―3で破り、選抜大会も含めて大舞台で初勝利を挙げた。次の相手、日大三(西東京)には7―6で競り勝った。「ここからです。いい意味での勘違いが始まるのは」と佐々木。横浜との準々決勝は、2年生だった林が大会史上5度目のサイクル安打を達成するなど、好投手の涌井秀章(現・ロッテ)を攻略した。

 優勝できた要因を、みな口々に「勢いがあった」という。それは、すべてではない。代名詞でもある「雪上ノック」など、過酷な環境を言い訳にしない練習を積んできた。おぼろげだった「北海道のチームでもやれる」という自信が、勝ち進むたびに膨らんでいった。大会記録として残る4割4分8厘のチーム打率は、その結晶だ。

 翌夏、林が主将に就いたチームも頂点まで駆け上がった。そのまた次の夏は、史上2校目の3連覇にあと1勝と迫った。雪の中での練習は北海道で常識になり、15年の選抜大会では、東海大四(現・東海大札幌)が準優勝。16年の夏は、当時37回目の出場だった北海も準優勝した。

 いま母校で教師、監督として後輩たちを指導する佐々木は言う。「当時からずっと変わらないのは、『北海道をなめるな』という思いです。だから、ほかの学校が甲子園で活躍しても、すごくうれしいんです」。開いた道を、続くライバルたちがいる。互いに刺激し合い、北海道の高校野球を、もっと高めていく。(山下弘展)

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 佐々木孝介(ささき・こうすけ) 北海道余市町出身。駒大苫小牧高から駒大へ進み、2009年8月、母校の監督に就任。14年春、18年春は甲子園へ導いた。