(2010年1回戦、開星5―6仙台育英)

 「何が起こったのかわからなかった」

 2010年8月11日。島根代表の開星は、東北の強豪、仙台育英(宮城)との1回戦で、1点をリードして九回2死満塁のピンチを迎えた。マウンドにいた2年生エース、白根尚貴がスライダーを投じると、外野に飛球が上がる。「勝った」。白根はボールの行方も見ず、試合後の整列のために本塁方向へ歩き出した。そして、両拳を握って喜んだ。

 しかし、次の瞬間。落下地点に入った中堅手のグラブからボールが転がり落ちた。白根の目の前を同点の走者、逆転のランナーが次々と駆け抜けていく。「まさか落とすとは……」。ぼうぜんとするほかなかった。

 九回、白根は簡単に2死を奪った。あと1死。ここからだった。安打に死球、失策、安打で満塁に。一打逆転のピンチを迎えた。「とにかく苦しかった。さっさとバットに当てて前に飛ばしてほしいと思ってました」。あの場面、この日の167球目は、真ん中へのスライダーを選んだ。「打たせたいがために、ストレートではなく遅い球を投げた」。飛球を打たせたところまでは思惑通り。ベンチにいた就任1年目の山内弘和監督も、3万6千人の観客も、開星の勝ちを疑わなかった。だが、落とし穴があった。

 身長185センチ、体重91キロと大柄だった白根は、マウンドや打席ではふてぶてしい態度を見せた。「山陰のジャイアン」と呼ばれ、この試合でも、投打でチームを引っぱる存在だった。

 投手としては、立ち上がりから苦しんだ。三者凡退の回は一つもなく、計10四死球。「もとからリズムがそんなにいいタイプではなかった」。それでも、なんとか粘り、バットで自らを助けた。

 一回の第1打席こそ空振り三振に倒れたが、その後は3打席連続で長打。特に七回の第4打席。先頭で打席に入った白根は左越えに本塁打を放った。カウント2ボールからの3球目をバットの芯でとらえた。「あれから高校生活はもう1年ありましたけど、それを含めても一番完璧に近いホームラン」。3安打3打点。八回までは間違いなく、この試合のヒーローだった。

 しかし、逆転されて初戦敗退。「油断とか気持ちの緩みの面で一番教訓になった。小学校から野球をずっとやってますけど、こういう試合を体験したのは初めて。その後の野球人生でアウトになるまでボールを追いかけるとか、フライは両手で捕るとか、基本を大切にするようになりました」

 あれから8年。ドラフト4位でプロ野球ソフトバンクに入団し、けがもあって育成選手に格下げされた。トライアウトを経て、DeNAに入団。今は外野手としてプレーしている。

 この年の開星は激動の1年だった。春の選抜大会で21世紀枠の向陽(和歌山)に1―2で敗れ、当時の野々村直通監督が不適切な発言をして辞任した。選抜大会後に予定されていた練習試合や毎年恒例の合宿も中止。グラウンドに「お前らなんか野球をやめてしまえ」と罵声を浴びせに来る人もいた。バトンを引き継いだ山内監督は「とにかく我慢しようって。勝って、開星の力を証明するしかないって言い続けました」。

 そんななか、夏の甲子園にも出場し、仙台育英と熱戦を演じた。山内監督は「甲子園で散れたことに感謝ですよ。選手にも『ありがとうね』と言いました」。

2010年のできごと

  • 日本航空、会社更生法の適用を申請
  • 小惑星探査機「はやぶさ」が帰還
  • AKB48がヒットチャート席巻

 いまもチームを率いる山内監督は、練習や試合で軽率なプレーを見つける度、「ゲームセットになるまで分からんぞ」と厳しく指導しているという。

 8年前の苦い経験は、開星の財産になっていた。

     ◇

 〈しらね・なおき〉 1993年、松江市生まれ。夏の甲子園は92、93回に出場。2012年、ソフトバンクにドラフト4位で入団。16年からDeNAに在籍。