(1981年3回戦、報徳学園5―4早稲田実)

 その試合を経て、傍若無人な野球少年は少し大人になり、ヒーローになった。1981年、早稲田実(東東京)との3回戦。報徳学園の4番でエースだった金村義明は言う。「野球の原点を教えてもらった」

 5万5千人で埋まった甲子園球場。「関西の女子高が全部もってかれたというくらい、早稲田実が人気だった」。相手には、この夏の「主役」がいた。前回大会で1年生ながら投手として準優勝に貢献し、端正な容姿もあいまって「大ちゃんフィーバー」を起こした荒木大輔だ。金村は、この投げ合いに燃えた。「天性の負けじ魂がメラメラと。負けるわけにはいかない」

 望み通り、投手戦となった。だが、0―0で迎えた七回、金村の強い気持ちが一気にしぼむ。下位打線に集中打を浴び、3失点。「ああ終わった。100%負けた」

 八回が終わって、報徳は3点のビハインド。九回表、なんとか3人で片付けた金村は、マウンド付近で荒木を待った。ボールをポンと投げ、伝える。

 「勝負せえよ」

 ボールを受け取った荒木は、実にさわやかな笑顔だったと記憶している。

 なぜ、声をかけたのか。金村はその裏、先頭打者だった。「意地で一発ホームラン打って、散ろう」と。打算もあった。「『勝負せえよ』と言うたら、絶対初球はまっすぐ」

 思惑通り、荒木の初球は直球だった。しかし、打球は飛球にならず、二遊間へのゴロ。懸命に走って間一髪の二塁内野安打にした。勝利への望みはつないだ。だが、金村が浮かべた苦笑いは諦めを意味していた。

1981年のできごと

  • スペースシャトル初飛行
  • 窓ぎわのトットちゃん大ヒット
  • 「なめネコ」ブーム

 「申し訳ないけど、チームメートなんて誰も信用していなかったから」

 兵庫県宝塚市で育った幼少時代。緑色が際立つ報徳のユニホームに憧れた。小学校の放課後、西宮市の武庫川沿いにあった報徳の練習場まで自転車で行き、眺めた。中学から報徳へ。その際に父親から反対されたが、「報徳にいって阪急ブレーブスにいって、お金は返すから」と泣いて懇願した。「夢と希望だけで入った」。思いが強い分、仲間への要求は高く、ミスにいらだちを隠せなかった。

 「僕が打って抑えて勝つのが報徳」。バッテリーのサインだけでなく、攻撃のサインも、自ら打席や塁上から出していたほどだ。

 そんな金村を、仲間が救う。無死一塁から死球、6番・岡部道明の左翼線適時二塁打、さらに1死後に途中出場の浜中祥道が2点二塁打を放った。「まさか同点になるとは……」。生き返った金村は、十回表を三者凡退で終わらせた。

 その裏、2死二塁。金属音が響き、拍手と悲鳴が入り交じる。5番・西原清昭が左越えに運び、二塁走者だった金村はガッツポーズをして本塁を踏む。マウンドで荒木がしゃがみ込んでいた。夏の主人公が入れ替わった瞬間だった。

 金村らが生まれる前の1961年、43回大会1回戦、報徳学園は倉敷工(岡山)に延長十一回で6点を奪われたが、その裏に取り返し、十二回にサヨナラ勝ち。「逆転の報徳」と呼ばれた。その試合も控え選手の一打から息を吹き返したという。先輩たちをほうふつとさせる戦いだった。

 金村は思い返す。「100%負けたと諦めていたのに、普段打てない選手が打って、追いついて。奇跡ですよね。だから、その後の試合は、自信の塊。どことやっても負けることはない、みたいな」。準決勝で工藤公康(ソフトバンク監督)を擁する名古屋電気(愛知=現・愛工大名電)を破ると、決勝では金村の100球完封もあって、京都商を2―0で下した。

 独りよがりで窮地に立ち、仲間に助けられ、大切さに気づく。そして、ライバルを次々と倒していく。マンガのようなストーリーは、全国制覇という形で幕を閉じた。

 金村はドラフト1位でプロ野球近鉄に進み、現役引退後は野球評論家やタレントとして活躍している。2018年夏、55歳になる。高校時代を「ほとんど覚えてないねんけど」と豪快に笑うが、あの夏の話になると「早稲田実のだけは覚えてんねん」と真顔になる。「甲子園の力と報徳の伝統と、野球は9人でやるスポーツだなというのを、つくづく感じたね。周りの人間に感謝する気持ちができたのも、早稲田実のサヨナラのおかげ。野球の原点というか、1人じゃできんもんやなと教えてもらった試合だった」(小俣勇貴)

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 金村義明(かねむら・よしあき) 1963年、兵庫県生まれ。報徳学園のエースとして81年夏の63回大会で優勝し、秋のドラフト1位で近鉄に入団。中日、西武を経て99年に現役を引退。スポーツ報知評論家。