(1997年1回戦、秋田商4―3浜田)

 「たぶん、見ていた人誰もが、2人がプロで投げ合う姿を想像しなかったと思う」。ヤクルト投手陣の柱として活躍してきた石川雅規は懐かしそうに振り返った。1997年8月11日。秋田商の3年でエースだった石川は、1回戦でのちにソフトバンクなどで活躍する和田毅がいた浜田(島根)と対戦した。

 秋田商は17年ぶりの出場だった。強打で秋田大会を勝ち上がってきた選手たちは球速130キロ台の2年生左腕の和田の映像を見て、「打てる」と感じていた。

 しかし、試合は先制を許す展開。一回2死二塁で、石川の変化球が高めに浮き、右前に落とされた。「暑かった。なんじゃこれはと思った。色んなものと戦っていた」と石川。四回1死一塁、バント飛球を処理しようとした際、捕手で主将の太田直(すなお)と交錯し、スパイクが脱げた。太田は「石川の足を踏んじゃった。緊張していたなあ」と当時の慌てぶりを振り返った。

 四回2死三塁、佐々木雄志が中前に適時打を放って同点とした。だが五回、三塁打とスクイズで再びリードを許した。自慢の打線は球速では計れない伸びのある和田の球に六回までわずか2安打。八回の守備では無死三塁から佐々木雄が悪送球し、失点を重ねた。

1997年のできごと

  • 消費税率5%に引き上げ
  • 山一証券が破綻
  • 初代プリウス発売

 ただ、秋田商は1イニングに複数点を与えなかった。太田が振り返る。「今でもすごいと思うんですけど、小野平監督がカウント3ボール1ストライクから『外せ』のサインを出したんです」。八回、佐々木雄の悪送球のあとだ。1死三塁でスクイズを外し、三塁走者をタッチアウトにした。小野監督は「1点取られたら終わり。四球は覚悟の上。でも相手の監督の采配は堅実で、スクイズだと思っていた」。

 試合は1―3で九回へ。「気づいたら九回。できれば1点差で迎えたかった」と石川は窮地に立たされたことを感じていた。打順は3番鎌田信幸からで、右前安打で出塁。それまで3打数無安打の4番羽川洋介も、右前安打で続く。「いつもの感じではなく、『大事に逆らわず』です」と羽川も必死だった。

 そしてこの後、考えられないことが起こった。5番佐々木雄が三塁線にバント。捕球した和田が反転して一塁へ送球すると、一塁ベンチ側にそれる悪送球に。ボールは右翼へ転々。さらにだ。カバーした右翼手が三塁へ悪送球。同点の2点が一気に転がり込んだ。「何が何だかわからなかった」と石川。その後も無死三塁、一打サヨナラのチャンスになった。

 小野監督はすぐさま、どこでスクイズをするか頭を巡らせた。しかし、思考とは別に浜田ベンチは満塁策をとる。無死満塁、打席に立ったのは8番石川だった。バントの構えで和田を揺さぶる。ただ、勝利への執念とともに不思議な感覚が心のなかにあった。「和田は何かつぶやきながら投げていた。彼の思いを感じて、ピッチャーの気持ちになってしまった」。カウントは3ボール。最後の球も内角高めに外れた。サヨナラの押し出し。

 石川に笑顔はなかった。「素直に喜べなかった。和田がなんとも言えない表情をしていた印象が強い」

 石川は青学大に進み、全日本大学選手権を制するなど投手としての階段を着実に上った。和田も早大に進学し、当時リーグ記録だった江川卓(法大)の奪三振記録を塗り替える投手に成長した。

 20年が過ぎ、互いにプロでもベテランの域に達した。「和田が頑張っているから俺も頑張らなきゃという思いが強いですね」。1球の怖さ、投手心理。あの夏に学んだ思いを胸にマウンドに立ち続ける。(坂名信行)

     ◇

 石川雅規(いしかわ・まさのり)。秋田県出身。ヤクルト入団後は、2002年に12勝9敗で新人王。08年に最優秀防御率に輝くなど16年間で156勝。