-
大分BEST GAME SELECTION
1988年第70回3回戦
-
1 2 3 4 5 6 7 8 9 計 大垣商岐阜 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 津久見 0 0 0 1 0 0 0 0 X 1 -
川崎憲次郎が演じた投手戦
津久見・川崎、大垣商・篠田の好投手同士の投げ合い。四回に相手のミスに乗じてあげた1点を川崎が11奪三振で守りきる
好投手と投げ合う津久見・川崎、スーパープレーが救った
2018年3月2日17時46分
(1988年3回戦、津久見1―0大垣商)
「本気で優勝する気でいました。その自信もありました」。30年前の第70回記念大会。津久見のエース川崎憲次郎は燃えていた。
その年の選抜で8強入り。夏の大分大会も順調に勝ち進んだ。川崎は5試合を一人で投げ抜き、5失点で実に四死球ゼロ。当時の監督、山本一孝(現臼杵監督)も「選抜を終わって手応えを感じていた。5月くらいからかな、選手の前でも『甲子園で優勝を目指そう』と話していた」。1967年春と72年夏の甲子園で頂点に立った名門に地元の期待も膨らんだ。
3回戦で対した大垣商(岐阜)も、この年のドラフトでダイエーに1位指名される好左腕篠田淳を擁していた。「カーブの落差がすごかった。そう簡単には打ち崩せないと覚悟していた」。川崎はそう振り返る。
試合は予想通り両投手の投げ合いになった。
1988年のできごと
- 青函トンネル・瀬戸大橋が開通
- 東京ドーム完成
- 「ドラゴンクエストⅢ」大流行
「相手がいいと、そこに引っ張り上げられることがあるじゃないですか。この時もそうだったと思いますね」と川崎。一回に1安打を許すが、その後は四回まで無安打に抑えた。当時、自信のあった球は? 「アウトローのまっすぐ」と川崎は即答した。プロで決め球となったシュートは高校時代は投げていなかった。
川崎は津久見市の隣の佐伯市出身。小学校の頃から津久見で甲子園へ行くのが夢だった。85年に母校である同校の監督に就任した山本は、中学3年の川崎と硬球でキャッチボールをしたことがあった。「スピードも回転もすべてが良かった。柔らかいフォームから手元でぐんと伸びる球だった」。山本は、この逸材で甲子園に行かなければ、と強く思った。
興南の我喜屋優監督が2010年に春夏連覇を果たすまで、九州・沖縄地区でただ一人春と夏の甲子園を制覇した名将小嶋仁八郎(にはちろう)元監督も当時60歳半ばで、ほぼ毎日グラウンドに顔を出していた。「教えはおおざっぱ。300球投げろとか、ずっと走っとけとか。細かいことを言われた記憶はない」。川崎は言われるがままに連日300球を投げ込んだ。「それも45分以内ですよ」。制球はさらに磨かれた。
試合は四回に津久見が1点を先取する。1死一、三塁で打者は三ゴロ。併殺を焦った二塁手が一塁へ悪送球。三塁走者が生還した。「篠田を崩すには足を絡めないと、と思ってエンド・ランをかけて内野を慌てさせた」と山本。「どんな形であれ、点が入ったのはうれしかった」と川崎。結局この試合の得点はこの1点だけだった。
もうひとつ明暗を分けたプレーがあった。
八回の守備。1死一塁から、中前安打で三塁を狙った一塁走者を中堅手木下が刺した。「あれはスーパープレー。三塁へワンバウンドだったかな。でも、どストライクでね。あれで試合の流れが切れましたからね」。川崎は木下のプレーを絶賛する。
九回、ファウルで散々粘られながらも、川崎は先頭打者の篠田を空振り三振にしとめた。「最後はくそボールを振ってね。あの時の篠田の顔は忘れられない。あっしまったというね」。毎回の11奪三振。三塁を踏ませなかった。
「この試合の勝利は自信になった。目標である優勝に一歩近づけた、と思った」。しかし、準々決勝で広島商に0―5で敗れる。広島商の川本幸生監督がとった川崎対策は、自身が選手時代の73年の選抜で、作新学院(栃木)の江川卓を攻略した戦法だった。くさい球はカットして、1打席で5球は投げさせる、そしてバント。
「相手の術中にはまった。力任せに投げると全部カットされて、体力だけ消耗した。精神的なイライラが募った」。川崎の夏は終わり、勝った広島商が6度目の頂点に立った。
川崎はその年のドラフトでヤクルトと巨人から1位指名を受け、ヤクルトへ。プロ通算88勝をあげ、最多勝利投手や沢村賞にも輝いた。だが、津久見はこの年を最後に春も夏も甲子園出場がない。「僕らのころは他校は津久見のユニホームを見ただけでびびり上がっていた。でも、今は強かった頃を知らないから、あのユニホームを見ても何も思わない。それが寂しいんですよ」。かつてのエースはそう言って視線を落とした。(堀川貴弘)
◇
かわさき・けんじろう 大分県佐伯市出身。ヤクルトで1998年に最多勝と沢村賞。四国アイランドリーグplus香川の投手コーチに就任。