(1999年決勝、桐生第一14―1岡山理大付)

 桐生第一のサウスポー、正田樹(いつき)には「決めポーズ」がある。

 気分が乗っているとき、勝負どころで打者を仕留めに行ったとき、腕を振り切った後に腰を三塁側にひねり、左ひざを高く上げる。前年、甲子園で春夏連覇した横浜の松坂大輔がやっていたのをまねた。

 だがこの日は、そのポーズを出す余裕がない。

 1999年8月21日、岡山理大付との決勝。一回、2死から適時打を浴びて先取点を許した。本塁にベースカバーに走ったエースは、左腕のアンダーシャツで口元をぬぐった。「ちょっときついかな」

 準決勝までの5試合で3完封。45イニングのうち、44イニングでマウンドを守った。投げ合った相手は、1回戦の比叡山(滋賀)・村西哲幸、2回戦の仙台育英・真山龍、3回戦の静岡・高木康成ら、後にプロに進んだ投手ばかり。「勝ち抜いたことで僕自身もチームも自信がつきましたし、勢いに乗っていったところはある」。一方、激戦の連続は全身に疲れをためた。決勝は4連投目だった。

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 ただ、準決勝までの4試合すべてを完投した相手エース、早藤も万全ではない。球威に陰りの見えた直球を、桐生第一打線が狙った。

 一回、先頭の斎藤が初球をはじき返し、右中間へ三塁打。栗原の右犠飛で同点とした。二回は2死二塁から高田と斎藤の連打で2点を勝ち越し。準決勝まで打率2割5分2厘だった打線が、七回までに戦後の選手権決勝では最多(当時)となる14得点を刻んだ。

 「援護に助けられて、あとは乗っていった」。二回以降の正田は大きく割れるカーブがさえ、直球は低めに集めた。「ドカベン」の異名をとった相手の4番・森田和也とは走者を背負った場面で4度相対し、安打は1本も許さなかった。

 13点差のまま、九回2死。「ピッチャーの欲が出た」と三振を狙いに行ったが、粘られ、三ゴロに。野手が集まってくるマウンド上で、両腕を突き上げた。「無心だった」と、その瞬間を正田は振り返る。

 前年の80回大会で、桐生第一は開幕試合で明徳義塾(高知)に延長十回サヨナラ負け。55代表で最も早く、甲子園を去った。ベンチにいた2年生の正田に、登板機会は訪れなかった。この夏も、1回戦は大会開幕日。「また初日で帰るのだけはやめよう」と、目標は初戦突破。それが県勢最高だった4強の壁を越え、全国制覇。決勝翌日の22日夕、JR桐生駅から学校に向かう桐生第一の選手たちを、約8千人の県民が祝福した。

 2018年。正田は現役選手としてユニホームを着ている。

 高校卒業後にドラフト1位で日本ハムに入団し、新人王に輝いた。だがその後は思うように輝けず、阪神に移籍していた08年オフに戦力外に。野球ができる環境を求めて台湾リーグにも挑戦した。14年から、独立リーグの四国アイランドリーグplus(IL)・愛媛マンダリンパイレーツでプレーしている。

 昨年11月で36歳になった。20代前半の選手が多いチームで最年長だが、NPB復帰の夢は諦めない。「自信があるとかないとか、そういう感覚ではない。自分がやりたいかどうか、ですよね」

 決め球にフォークを使うようになった。20代の頃に一度習得をめざしたが、モノにならなかった球種だ。「いろんな経験と言いますか、今の自分になったときに、ゲームで使えるレベルまでは持ってこられた。当時できなかったことを、今の自分にはできるというところが、続けている中での楽しみの一つです」

 もっと野球がうまくなりたい。正田は高校時代と何も変わっていない。(鈴木健輔)

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 正田樹(しょうだ・いつき) 1981年、群馬県太田市出身。桐生第一のエースとして、81回全国選手権で優勝した。日本ハム時代の02年に新人王。台湾球界などを経て、現在は四国IL・愛媛に所属。