(1986年決勝、天理3―2松山商)

 奈良に春夏通じて初の優勝旗をもたらしたのは1986年、第68回選手権大会の天理だった。

 5番一塁手の主将だった中村良二はプロ野球の近鉄、阪神でプレーし、現在は母校の監督。中村は当時を思い出し、柔らかな笑みで言った。「目標はベスト8でした。国体に行こう、と。3年生でベンチに入れなかった仲間が6人いたので、『国体なら3年生チームで出られるかもしれん』と思ってましたから」

 天理にとって3年ぶりの夏の甲子園。エースの本橋雅央(3年)は、6月ごろから右ひじの痛みを抱えながら投げてきた。エースを助けたい一心の打線は好調で、初戦の2回戦から準決勝までの4試合ですべて2桁安打していた。

 そして決勝。松山商は一回裏、のちに近鉄で中村のチームメートとなる1番水口栄二(3年)が大会記録を更新する16安打目。これを足がかりに1点を先取。天理は四回表、1死から四球、右前安打に暴投で同点。さらに1番大平幸治(2年)の右前安打で2―1と勝ち越した。

1986年のできごと

  • チェルノブイリ原子力発電所事故
  • ハレー彗星が接近
  • 使い捨てカメラ「写ルンです」発売

 五回裏、天理の守りに大きなプレーが飛び出す。無死一、三塁で松山商の左打席には2番堀内尊法(3年)。カウント2―1から2年生捕手の藤本三男がスクイズを読み、本橋に「外せ」のサイン。本橋は首を振ったが、藤本は出し続けた。あまりのしつこさに本橋が折れてウエストすると、果たしてスクイズだった。堀内のバットはボールに届かず、三塁走者の大野義光(3年)がタッチアウト。同点のピンチを免れた。相手の窪田監督のしぐさを不自然と感じた藤本の“ファインプレー”だった。

 天理は六回表に1点を追加。ところがその裏、本橋が先頭の4番中村包(3年)に三塁打される。マウンド上でしきりに右ひじをさする本橋。犠飛で1点を返された。中村は何度もエースに声をかけた。「あのころが一番キツかったと思いますよ。あとから『終盤は痛みも感じなかった』って言ってましたから」

 そのまま九回裏を迎える。天理は簡単に2死をとり、打席の水口は1―1からの3球目を平凡なサードゴロ。三塁手の山下勝弘(3年)が捕る。次の瞬間、山下は「よっしゃ優勝や!」と言わんばかりに球を持った右腕を空に突き上げた。ところが、一塁の中村へワンバウンドの悪送球。水口は二塁まで進んだ。歓喜のゲームセットのはずが、一打同点のピンチとなった。中村は「勝った、と思いましたね。右腕を上げるぐらい余裕あるんやから、送球は胸に来ると思いこんでました。そしたら球が消えた」と笑う。

 捕手と内野陣がマウンドに集まると、山下が口火を切った。「もう一回俺のとこ、打たせてくれ」。真顔だった。本橋が笑い出す。みんなで「もう一回サードいくぞ!」と言い、守備位置に戻った。

 打者は左の堀内。データではセンターから左にしか打球が飛ばない。サードに打たせるためには外角と考えがちだが、本橋はサインに首を振り、内寄りに投げた。中村が言う。「外だとうまく打たれてヒットもある。内でも左に打つから、そうしたって本橋は言うんです。冷静ですよね。しかもまだ、そこへ投げるコントロールがあった。たいしたもんです」

 狙い通りのゴロを捕った山下は、今度は控えめに手を上げ、ストライク送球。ようやく天理に歓喜の瞬間が訪れた。

 閉会式後の場内一周。中村は一塁側アルプス席に近づいたとき、天理の応援団に向け、優勝旗を高く掲げた。ベンチを外れた6人の3年生に優勝を報告するためだった。「毎日僕らのサポートをしてくれました。甲子園が決まると777羽の鶴を折って、僕に渡してくれた。それが、いまだにうれしいんですよね」。32年前を思い、中村は声を震わせた。

     ◇

 なかむら・りょうじ 1968年、福岡県生まれ。天理高から186年秋のドラフト2位でプロ野球近鉄に入団。阪神に移籍し、97年まで通算11年プレーした。現役引退後は天理大監督を経て、2015年秋、天理高監督に就任した。昨年の第99回全国選手権でチームを4強に導いた。