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茨城BEST GAME SELECTION
1984年第66回決勝
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1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 計 取手二 2 0 0 0 0 0 2 0 0 4 8 PL学園大阪 0 0 0 0 0 1 0 2 1 0 4 -
取手二がPLを破り初優勝
取手二の中島が同点の延長十回、疲れの見えたPL学園の桑田から3点本塁打を放ち、茨城勢初の優勝を決めた。
「今日の桑田は普通じゃない」取手二、直球狙って頂点
2018年2月16日22時21分
(1984年決勝、取手二8―4PL学園)
捕手のサインをのぞき込むPL学園の桑田真澄の背中越しに、ボールの握りがはっきりと見えた。右打席にいた取手二の5番中島彰一は確信する。「ストレートだ」。4―4の同点で迎えた延長十回表、1死一、二塁で、桑田が投じたこの試合の160球目。中島が思い描いた通りの球種が、内角高めにスーッと入ってきた。
1984年8月21日。2年生の桑田と清原和博を擁して夏連覇を狙ったPL学園と、茨城勢初の栄冠を目指した取手二の決勝は、試合前から降った雨の影響で、予定より33分遅れの午後1時3分に始まった。
「勝つ自信なんて全くない。子どもらの好きなようにやらせようと思っていました」。取手二監督の木内幸男は振り返る。この約2カ月前、水戸市民球場での招待試合で、取手二打線はPL学園の桑田に1安打完封を喫し、0―13とこてんぱんにやられていた。
ただ、甲子園決勝の桑田は3連投だった。「桑田君がバテているのは分かってましたから」。だから名将は試合前から、「今日の桑田は普通じゃないから、打てるんじゃねえの?」「お前ら3年で向こうは2年だから、1年間の差があるよ」と発破をかけた。
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一回、監督の言葉を選手たちが体感する。1番の吉田剛は三ゴロ、2番の佐々木力は右飛に倒れたが、2人とも「今日は打てる。伸びがまったくない」。桑田の直球をたたく狙いが確信に変わった。3番下田和彦、4番桑原淳也の連打に敵失も絡み、一回に2点を先制した。
エース石田文樹、捕手中島バッテリーの桑田、清原対策もはっきりしていた。「内角攻め」。準決勝までを分析した中島は振り返る。「みんな外中心の組み立てで打たれていた。だから石田とは内のシュートやシュート回転をかけたストレートを投げようと話していた」
4―3とリードしたまま迎えた九回裏。中島には「勝てる」という気持ちが生まれた。「早く終わらせたいという心理が働いてしまった」。この回の先頭、1番清水哲に甘く入った直球を左翼席に運ばれ、同点。さらに次打者に死球を与えたところで、木内が動いた。石田を右翼に下げ、左腕・柏葉勝己を投入したのだ。「石田はいい子ですけど、あまり気は強くない。そしてピッチャー命。いっぺん外野をやらせれば反省して、投げたい気持ちが起きるだろうと」
柏葉が次打者を送りバント失敗(記録は捕ゴロ)に抑えると、木内は再び石田をマウンドに戻す。石田は笑顔を浮かべた。「生き生きとした表情や投球練習の腕の振りを見て、行けるぞ、という思いはありました」と中島。続く清原はインコース高めのシュートで三振、桑田には「コースは甘かったけど、シュートをかけた分、詰まらせることができた」(中島)。三ゴロに打ち取り、サヨナラ負けのピンチをしのいだ。
そうやって迎えた延長十回だった。桑田の内角高めの真っすぐを捉えた中島の打球は、ラッキーゾーンを超えて左翼スタンドまで届いた。勝ち越しの3ラン。「大根切りホームラン」などとも称されたが、中島は誇らしげにこう話した。「真っすぐが来ると思い込んで、イチニノサンで打ちに行った。体が止まらなかったというのが本音。あれを選球していたのでは、ああいう結果は生まれなかったのかなと思います」
選手への声かけ、そして九回に見せた継投。メディアが「木内マジック」ともてはやしたものの本質について、80歳代後半になった本人は、「子どもたちの性格や特性を見極めてた。生徒をよく知っているから、その生徒なりの作戦を使った。それが当たりました。まあ子どもたちに恵まれた。監督の作戦が当たるっていうのは、子どもたちがそれをちゃんとやってくれるから」と静かに振り返った。(平井隆介)
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木内幸男(きうち・ゆきお) 1931年、茨城県土浦市生まれ。取手二の監督として84年夏にPL学園を破り、茨城勢初の全国制覇。2001年春、03年夏にも常総学院で優勝。勇退から4年で再登板、11年夏を最後に引退した。
中島彰一(なかじま・しょういち) 1966年、茨城県石岡市出身。取手二3年の夏は捕手。東洋大を経て、89年に住友金属鹿島(当時)に入社。2015年、7年ぶりに新日鉄住金鹿島の監督に復帰した。