(2009年準々決勝 花巻東7―6明豊)

 最大の試練が訪れた。2009年8月21日。岩手代表の花巻東は、大分代表の明豊と4強の座を争っていた。4点リードの五回裏。それまで1人の走者も許していなかったエース、菊池雄星の様子がおかしい。

 最初に気づいたのは二塁手の柏葉康貴だ。「腰を手で触ってましたから」。無死一、三塁で6番打者への2球目の後、菊池は両ひざに手をついた。「呼吸をするのも痛かった」。4人目を遊飛に仕留めた後、佐々木洋監督は三塁手・猿川拓朗への投手交代を決めた。

 左腕から繰り出す150キロを超える剛球が持ち味の菊池は、この世代のナンバーワン投手だった。選抜大会は準優勝。満を持して迎えた最後の夏、岩手で生まれ育った花巻東の選手たちは、岩手の高校野球史上初めて、本気で、自信をみなぎらせて、深紅の大優勝旗を取りに来ていた。

 その最強エースが、もうマウンドにいない。苦闘が始まる。明豊とは選抜でも準々決勝で対戦した。4―0で退けていても、「あのときは雄星がよかった。今宮(健太、ソフトバンク)もいて、手ごわい」と猿川。緊急登板で、変化球のコントロールに苦しむ。

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 必死で止めるのは、捕手の千葉祐輔。腰を落とし、ときにグラウンドにへばりつくようにして、体を張った。「ずっと監督さんに、『負けるとしたら、お前で負ける』と言われていたから」。意地でも後ろへそらさない。

 じわじわと追い上げられ、八回、逆転を許した。2点を追い、残された攻撃は1イニング。九回無死一、三塁で、5番の横倉怜武が偽装スクイズに成功し、二、三塁。ここで、横倉は緊張のあまり硬直する。ボール球に手を出してファウル。佐々木監督は伝令に菊池を送り出した。

 伝令を託す選手には、こだわりがあった。「暗い顔や心配そうな顔はダメ」と佐々木監督。いつも朗らかで、大黒柱として信頼も絶大の菊池は最適だった。横倉が漏らした言葉を菊池はよく覚えている。「『打ち方忘れた』って。こんなときに、って思った」

 菊池は横倉の肩を抱き、笑顔を交え、佐々木監督の指示を伝えた。「顔を残して、球を上から見てたたけ」。果たして、横倉はその通り、顔を動かさず、体も開かず、右翼へ打ち返した。ずっと練習してきた打球だった。同点だ。

 十回。2死二塁で打席が回ってきた主将の川村悠真は、初球を振ると決めていた。選抜大会決勝。1点を追う八回2死一、三塁で、ちゅうちょした。「重盗もあるかな、振らないほうがいいかな、と思っていたら」。つい初球に手が出て、三飛に倒れた。だから、もう迷わなかった。中前安打で決勝点を挙げた。

 試合後、お立ち台で報道陣のインタビューを受ける川村をちらちらと見て、横倉は誇らしかったという。「あそこに立っているのは、いつも雄星だった。やっと、自分たちの力を証明できた」。菊池の途中降板という大ピンチを、野手の総力で乗り切った。

 延長十回、2時間49分に全精力をつぎ込んだ花巻東は、準決勝で中京大中京(愛知)に1―11で敗れた。菊池のケガが肋骨(ろっこつ)の疲労骨折と判明するのは大会後だ。日本一には、あと一歩、届かなかった。しかし、選抜で5試合、選手権大会で5試合。甲子園で戦った計10試合は、この年、全国のどのチームよりも多かった。

 あの夏から8年が過ぎた。川村は教師になって母校に戻り、柏葉は東京で、横倉は地元・花巻で働く。千葉と猿川は社会人野球でプレーしている。他の部員たちも社会人になり、それぞれの道を歩む。菊池は、西武ライオンズのエースになった。

 将来的な大リーグ挑戦という、はっきりとした目標を持つ菊池には夢がある。「いつか、僕は引退するときが来る。そのとき、あのメンバーと、もう一回野球をやりたい。僕、絶対、あいつらと一緒にチームつくりますから」。仲間と紡ぐ物語は、続いている。(山下弘展)

 〈菊池雄星 きくち・ゆうせい〉 盛岡市出身。西武ライオンズ投手。2009年は花巻東のエースとして選抜準優勝、全国選手権大会ベスト4に貢献した。