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(白球の世紀:23)センバツ、初回は名古屋 高校野球

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2018年2月8日16時30分

 ■ありがとう 夏100回 これからも

 関東大震災から半年後の1924年3月11日、阪神電鉄は東洋最大の野球場を兵庫県鳴尾村(現西宮市)で着工した。

 「甲子園」の名を、大阪毎日新聞は着工に先立つ3月9日付紙面で報じた。「米国の粋を集めた/阪神枝川の大運動場」とうたった記事の末尾2行に、「同運動場は甲子園運動場と名づけ十一日午前十一時地鎮祭を行ふ由」とある。その地鎮祭と球場の完成予想図を載せた12日付夕刊の3日後、15日付同紙夕刊に社告が出た。

 「全国選抜中等学校野球大会/四月一、二、三日――名古屋市外山本球場/主催 大阪毎日新聞名古屋支局」。本文は「……名古屋に定めたのは従来大阪付近学校の優勝率が多いのは風土の関係にありとの説を試験せんが為(た)めと、及び中京ファンの希望黙止し難き為めである」と述べ、市岡中(大阪、現市岡)、高松商(香川)、愛知一中(現旭丘)、早稲田実(東京)などの8校を参加校とした。

 「選抜高校野球大会40年史」は「技量、品位ともにすぐれたチームを全国的視野から自由に選んで戦わせるユニークな方針」は「活躍の場を追い求めていた多くの強チームに、刺激と希望を与えた」と述べる。メディア史研究家の有山輝雄(74)は「人気が高い中学野球の大会を開き、しかも全国の優秀チームを一堂に集めてみせた。大阪毎日の力量を誇示するイベントだった」と分析する。大会は当初、地方球界に刺激を与えるため、各地を移動して開く計画だったと、大会40年史は記す。

 雨で4月5日に延びた決勝は、高松商と早稲田実の対戦だった。早実は震災で生徒約500人が被災し、10人が死亡。上級生らは被災生徒を支援するため栃木の納豆の委託販売を手がけ、5万本余を売ったという。痛手を乗り越えての出場だったが、決勝は0―2で惜敗。紫紺の優勝旗は四国へ渡った。

 一方、突貫工事の甲子園の建設現場で、種々の土を盛っては滑り込みを繰り返す奇妙な男がいた。

 (編集委員・永井靖二)