入学したが硬式野球部がない 甲子園夢見た生徒の願いが高校を動かす
18日に開幕する第95回記念選抜高校野球大会(日本高校野球連盟、毎日新聞社主催、朝日新聞社後援)で、城東(徳島市)の硬式野球部員が21世紀枠で初めて甲子園の土を踏む。明治創立で120年の歴史を持つ伝統校だが、部ができたのは1990年代半ば。約30年前、甲子園を夢見た1人の少年がいなければ、今回の出場はなかったかもしれない。
94年春。15歳の平田誠人(まこと)さんは、高校合格者の発表会場で、ぼうぜんと立ち尽くした。自分の受験番号が掲示されたボードの校名は、硬式野球部のない「城東」だったからだ。
平田さんは生光学園中学校(徳島市)軟式野球部で中堅手や投手を務めて四国大会の優勝を果たし、「高校では甲子園を目指す」と決めていた。だが、当時の徳島県の入試制度は、複数校を1グループにして生徒を募集する「総合選抜」。合格者は複数校に均等に振り分けられ、受験生は必ずしも希望の高校に入れなかった。夢は出ばなで打ち砕かれた。
入学後、県内トップになっても甲子園に出られない軟式野球部に入ったが、ふてくされて練習はさぼりがちだった。授業中もポケットに忍ばせた硬式球をいじくり、もんもんとした日々を過ごした。
■校長や教員に直訴
「城東に選ばれたのも何かのご縁。それを形にするのは、あんたやで」。気を取り直したのは、合格発表直後に母にかけられた言葉を思い出したからだ。徐々に練習に通うようになり、部員たちに「硬式をやりたくないか」と声をかけた。校長や教員には「硬式野球部をつくってほしい」と直訴を重ねた。
ネックは手狭なグラウンドと経費の問題だった。先輩たちも同じような思いを抱きながら断念していたと知ったが、あきらめの道は選ばなかった。初めは難色を示していた学校や県教育委員会も、平田さんの熱意にほだされていった。学校は、自転車で約15分の距離にある吉野川河川敷グラウンドを使えないか管理する徳島市と交渉。2年生の冬、軟式野球部の監督は平田さんに告げた。「ついに硬式野球部ができるぞ」。うれしさのあまり「信じていいんですか」と何度も聞き返した。
96年春、部員約20人で硬式野球部が発足。最初に取り組んだのは、河川敷の草むしりや土入れなどグラウンドの整備だった。練習に打ち込む一方、創部に尽力してくれた学校への感謝を込めて、毎朝、学校周辺の清掃にも励んだ。
その夏の徳島大会。3年生のエースで主将の平田さん率いる城東は、初戦で見事コールド勝ちを収めた。オーケストラ部なども応援に駆けつけたスタンドは、歓喜に包まれた。3回戦で敗退し、甲子園の夢はかなわなかったが、「人生で一番楽しい日々でした」。
■「野球の神様、見ていてくれた」
それから四半世紀が過ぎた今年初め。44歳となり、岡山市で暮らす会社員の平田さんは、城東が21世紀枠で甲子園出場を決めたニュースに接した。「野球の神様はちゃんと見てくれていて、ご褒美を与えてくれた」。2月中旬、当時の仲間と誘い合い、激励のために母校を訪れた。二回り以上若い後輩たちと対面し、こんなエールを送った。
「お世話になった人に恩返ししたいという感謝の気持ちが、奥底に秘められた力を引き出す。甲子園では笑顔いっぱい、元気いっぱいでプレーして下さい」
令和の二十四の瞳。城東硬式野球部は今選抜で最少の選手12人であることから、そう呼ぶ人もいる。
主将で捕手の森本凱斗(かいと)さん(3年)は「ナイスゲームで終わるのでなく、勝ちきることを目標にやる。少ない人数でもできるぞ、というところを甲子園で全国の人たちに見てもらい、今まで支えてくれた人たちに恩返ししたい」と意気込む。
部員たちは、日暮れが早い秋以降は、吉野川河川敷までの移動時間を惜しみ、学校で練習を重ねてきた。内野ほどの広さしかないグラウンドを最大限活用しようと、6人ずつ2チームに分かれて犠打や盗塁で得点を競う「バントゲーム」などで機動力野球を磨いた。21世紀枠の選考ではそうした創意工夫も評価された。
部員不足を補うため、野球経験がない唯一のマネジャー、永野悠菜さん(3年)もバットを握り、手にまめを作って部員たちをノックで鍛えてきた。
日本高野連は、今選抜で初めて、甲子園での試合前の守備練習で女子によるノックを認めた。1人の少年の熱情から生まれた城東硬式野球部の「二十六の瞳」は、目標である「甲子園での初戦勝利」に挑む。(吉田博行)
■徳島県立城東高校
1902(明治35)年に県立高等女学校として創立。作家の瀬戸内寂聴さんや漫画家の竹宮恵子さんらが輩出した、県内屈指の進学校。徳島市中心部にあり、徳島藩主・蜂須賀家の居城だった国史跡、徳島城跡の堀や石垣と近い。徳島の象徴、眉山をイメージしたなだらかな屋根をいただく体育館やベージュ色の4階建ての教室棟が立ち並ぶ。