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針と糸を買ってボールを縫う意味 前田の帝京野球はここから始まった

2022年8月19日09時00分

朝日新聞DIGITAL

 帝京を甲子園で春夏合わせて3度の優勝に導いた名将、前田三夫さんは昨年の夏の大会限りで監督から退いた。監督就任のエピソードや当時の心境をお伝えします。

     ◇

 大学を出たばかりの前田三夫さん(73)が1972年、帝京高校(東京都板橋区)硬式野球部の監督に就任し、最初に生徒たちに教えたことがある。

 それは野球の技術ではなく、ボールの縫い方だ。新しいボールは買わずに、針と糸を買った。そして、みんなで縫ったボールを使って練習した。

 ボールが買えなかったわけではない。にもかかわらず、そうしたのは、選手たちに初めて会ったときの反応からだった。

 「みんなで一緒に甲子園に行こう」と前田さんが呼びかけると、生徒たちが笑い始めた。当時の帝京は、高校野球界では全く無名。甲子園にいけるレベルの高校ではなかったのだから無理もない。

 だが、木製バットでチャンバラ。ボールもグラブがあるのに足で蹴る。そんな態度に、前田さんは「カチンときてね。根本的な姿勢ができていない。これではダメだ、と」。

■厳しさと優しさと

 練習を厳しくしたら、40人ほどいた部員は、4人になった。

 「2人くらい2年生を入れて6人かな。その連中が逃げ出したら夏の大会に出られないから、学校の近くに借りていた平屋に、この6人を泊めたんです」

 8畳の部屋に6人を泊め、自身も4畳半の部屋に寝泊まりした。

 「起きたら朝飯を食わせて、弁当を作った。昼休みには買い出しに行って、練習が終わる頃に夕飯を作って食べさせて、風呂に入れて、寝かせた」

 「弁当を新聞紙に包んで六個分。弁当は卵を焼いたり、ウィンナーを入れたり。昆布とか、千葉出身だからのり弁とかも作ってやった。その6人は、逃がさなかったね」

 野球に取り組む姿勢を、少しずつ変えていった。やがて、自分のバットでチャンバラをやらなくなり、縫ったボールを足で蹴ることはなくなった。

 ただ、厳しかっただけではない。初めてのボーナスは、選手たちに使った。

 「新宿のスポーツ店にバット工房があって、バットを削る職人がいた。生徒を連れて行って、1本ずつ買ってあげた。職人さんが正方形の木を削っていく。色々な型があって、それぞれ選ばせて、削るところから見せてやった」

 「新卒の初ボーナスなんてたかがしれているし、バットを作るので、いっぱいいっぱい。でも、なぜか苦ではなかった」

■甲子園の重み

 生徒たちを甲子園にも連れて行った。テレビで見るだけではわからない、「重み」を感じさせたかったからだ。

 「みんな食い入るように見た。甲子園を目で見た選手たちは、ここでやりたいっていうのを表に出すようになった」

 甲子園大会に行けば、当然、違う地方の高校とも対戦する。千葉県出身の前田さんは木更津中央(現・木更津総合)から帝京大に進んだ。4年間補欠だった大学時代に驚いたのは、関西の人間の「粘っこさ」だった。

 関西の気質を感じてもらおうと、監督になって始めたのは、関西のチームと戦うこと。すでに数々のプロ野球選手が輩出していたPL学園(大阪)との練習試合を取り付けた。

 「僕も若かったから、怖いもの知らず。だから、単刀直入に学校に電話した。帝京高校なんて知らないだろうし、断られるんじゃないかと警戒したけれど、受けてくれた」

 レベルの高さを知り、勝利への執念、諦めない心、勝負どころでの戦い方……。全国レベルのチームの「勝負心」を学んだ。

 帝京に来たのは、大学4年の時にコーチを頼まれたのが縁だった。卒業後、事務職員として帝京に就職した。

 「野球の指導なんてできっこないと思っていた。ただ、高校時代はあと一歩で甲子園に出られなかった。なら、『指導者として行ったらどうだい?』と言われて。甲子園っていう言葉を聞いて『高校生と行こう』と。それで監督を引き受けた」

 帝京が初めて甲子園に出たのは78年春の選抜大会。生徒に笑われたあの日から、わずか6年後のことだった。(野田枝里子)

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