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「人が死ぬのを見るのは・・・」ヒロシマ知る83歳名将、復活の夏

2022年8月5日07時00分

朝日新聞DIGITAL

 この夏も甲子園出場をかけ、高校球児たちは白球を追った。広島大会では快進撃を見せ、注目を集めたチームがあった。

 ユニホームの胸には「TAKEKO」の文字。竹原高校は、広島県中部の瀬戸内海に面した人口約2万4千の竹原市にある。全校生徒約150人の小さな県立校だ。

 野球部を率いる迫田穆成(よしあき)監督は、7月で83歳になった。

 広島商の主将・監督として全国制覇を経験。広島商と如水館(広島)の両校で春夏計14回の甲子園出場に導いた実績を持つ。

 2019年に如水館の監督を退任し、竹原へ転じた。

 竹原はこの春まで選手が9人だけだった。1年生16人が入部し、ようやく戦力が整った。

 チームを指導して3度目の夏、竹原は広島大会で8年ぶりに初戦を突破した

 左腕エースの新納(にいのう)涼介主将(3年)を軸に、1996年以来26年ぶりに夏の大会で2勝を挙げると、さらに35年ぶりのベスト16入りを果たす。

 4回戦は甲子園の出場経験がある崇徳に2―5で敗れた。85年以来の8強進出はならなかったものの、20年間で1勝にとどまっていたチームの大躍進だった。

 迫田監督にとっても夏の勝利を挙げたのは4年ぶりだった。

 「強いチームをつくらないと面白くない。いい伝統を竹原でつくり、続いていくようにしたい」

 迫田監督は広島市で育った。

 1945年8月6日午前8時15分、爆心地から約2・5キロの自宅で被爆した。

 焦土になった街には「黒い雨」が降り、4歳下の弟や親戚らとともに布団をかぶって逃げ出した。

 被爆した翌日、弟が亡くなった。

 「そんな大した病気じゃなかったのに、ずっと大八車に乗せられて、疲れて。6歳で人が死ぬのを見るのは、しんどいよね」

 戦争が終わり、満足に食べることもままならない頃、楽しみになったのが小学校入学後に始めた野球だ。

 家業が洋服店だったこともあり、ボールやグラブは余った布の切れ端を集めてつくった。バットは木を削ってこしらえた。大人たちと一緒にプレーして、褒められるのがうれしかった。

 広島商では左翼手で活躍。原爆投下から12年後の57年夏、主将として27年ぶり4度目の全国制覇に貢献する。

 「オープンカーで市内を一周して、驚くほど歓迎された」

 この年の7月、プロ野球・広島カープの本拠地となる初代の広島市民球場が完成した。復興が進む広島の街で、広島商の戦後初優勝は大きな勇気を与えた。

 73年夏には監督として、再び広島商に深紅の大優勝旗を持ち帰った。

 その後も高校野球に携わり続け、79歳で如水館の監督を退いた。

 当時、竹原の野球部保護者会長が長女の知人だったことが縁で、竹原での指導を要請された。部員数が少なく、設備も限られている。当初の合言葉は「コールド負けをなくそう」だった。

 現在の野球部員たちとは、5倍も年齢が離れている。

 迫田監督はLINEを使って部員とコミュニケーションを図ったり、自らのYouTubeチャンネルで技術論などを発信したり。「今の子がどうやって一番の力を出せるか。まだつかめない、指導者として勉強中」

 捕手の寺戸暖選手(1年)は、迫田監督の指導を受けるために竹原に進学した。

 「野球だけでなく、人としても学べることがあるのではないかと思って選んだ。自分のおじいちゃんくらいの世代だけど、毎日グラウンドに来てくれて、気になったことは何でも聞けます」

 どんなに部員が少なくても、迫田監督は日頃の練習から何度も「甲子園」と口にしてきた。

 甲子園を意識して練習しなければ、大舞台に立つことはいつまでも実現することはないと考えるからだ。

 また、これまで甲子園出場をした際は「原爆の日」に西の空へ向かって黙禱(もくとう)してきたことも伝えた。

 戦争や被爆については、淡々と語った。

 「またあったらいけん。それを経験したわしらは、ずっと二度とないようにしたいなということでやっとるんだ」。部員たちには野球ができる平和の尊さを感じてほしいと思っている。

 この春、迫田監督は長期の入院生活を強いられた。せん妄の症状が出るなどして、親族らは最悪の事態も覚悟するようにと告げられたという。

 体調が持ち直すと、ベッドの上で野球部の新入生が書いたアンケートを読み込んだ。選手それぞれの持ち味は何なのか、どのポジションで起用するのが最適なのか、想定を繰り返した。

 再び命の危機に直面し、生きていくために野球は欠かせないのだと改めて思った。

 「グラウンドは自分の庭という感じ。野球ができるのは、ありがたいことです」

 被爆77年の8月6日、夏の甲子園が開幕する。

 迫田監督は弟や家族をしのび、線香を上げて仏壇に手を合わせる。そして、竹原の選手たちが待つグラウンドへ向かう。(辻健治)

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