斎藤佑樹さんと島袋洋奨さん 甲子園優勝投手が語った「幸せな時間」
甲子園はどんな場所なのか。優勝投手だからこそ、見える景色とは。今年は沖縄が復帰して50年。第92回全国高校野球選手権大会(2010年)の優勝投手で、母校のコーチとして今夏の甲子園出場を決めた沖縄・興南の島袋洋奨さん(29)のもとを訪ね、「あの日」と「あの景色」について語り合いました。
◇
斎藤 僕自身、甲子園を目指そうと思ったのは、(横浜の)松坂大輔さんを見て。小学校4年生のときかな。島袋さんは。
島袋 僕も小学生の頃から。宜野座とか、当時出場していた学校を見て。それこそ、斎藤さんたちが出ていた当時の八重山商工もむちゃくちゃ応援してて。やっぱりそういう人たちにあこがれて出たいという気持ちが強くなりました。
斎藤 投手になったのはいつからですか。
島袋 小学校4年生ぐらいですね。
斎藤 この投手みたいになりたいという選手っていましたか。
島袋 僕は体がちっちゃくて。それで、小柄で(自分と同じ)左腕のヤクルト石川(雅規)投手をよく見ていました。父が、小柄な投手でも、こういう風に勝てるんだよって言って、しょっちゅうテレビで見ていた記憶があります。
斎藤 甲子園に最初に出たときはどんな気持ちでしたか。
島袋 圧倒されたというか……。最初、甲子園練習があるじゃないですか。そのときに、わー、すげえ、となったのはめちゃくちゃ覚えています。
斎藤 わかる。甲子園練習のとき、本当にそう思いますよね。
島袋 声も打球音も響くし。
斎藤 僕はね、甲子園練習のときに、こんな場所で練習をさせてもらえるんだという喜びと、ファンの方たちの近さに驚いて。ファンの方たちがすごく声をかけてくれるし。甲子園で最初に受けた衝撃はありましたか。
島袋 バスを降りて、学校(の選手たち)を待っている人たちって沖縄ではいないので。それも含めて甲子園なのかなって。
斎藤 優勝した選手権大会で、一番の「分け目」となった試合はどこでしたか。
島袋 初戦を取ったというのも分岐点でしたし、準決勝の報徳学園戦で5点差をひっくり返して、決勝にその勢いでいけたというのも優勝に近づいた試合だったのかなあと思います。
斎藤 僕らは大会を通してどんどん成長していく感覚があったんですけど、どうでしたか。
島袋 それは強く感じました。やっぱり僕らからすれば、対戦相手は甲子園の常連校ばかりで、そうしたところと戦えるというワクワク感もありますし、がんばっていこうとする中で成長を感じていました。
斎藤 優勝した選手権大会では800球近く投げていますが、甲子園で得られたこと、逆に、もっとこうしておきたかったなと思うことってありますか。
島袋 自分ひとりで投げ抜くという気持ちで準備していたので、長い時間マウンドに立てて幸せだったなって。斎藤さんも甲子園で948球を投げているじゃないですか。
斎藤 最後の方は4連投で、再試合にもなって、だいぶ疲れてはいたんですが、変な痛みもなく、気持ちでなんとかなるかなって最後まで投げられたんですけど。あのときはいい思い出かな。投げてて楽しかったじゃないですか。
島袋 幸せな時間でした。高校生のときしか味わえない時間だったなと。斎藤さんは決勝で再試合になって、1試合で終わりだったところを、もう1試合投げることになったとき、いろんな感情があったのではないですか。
斎藤 駒大苫小牧(南北海道)相手に1対1で引き分け再試合になったんですけど、正直ここまでいい試合ができるとは思っていなくて。だから、もう1試合同じようなピッチングができるかなと不安でした。体もきついし、どうなのよと思ったんです。終わってみれば優勝だったからよかったんですけど、長かったなあというのが率直な思い出です。あの当時は、早く終わって欲しいと思っていました。
もし、もう1回甲子園で投げろと言われたら、投げたいですか。
島袋 始球式で投げたいです。1球だけ、バーンと。
斎藤 決勝前に、監督や仲間とどんな話をしたか覚えていますか。僕は、決勝再試合で、翌日も試合があるとなったとき、和泉実監督は「おまえら、よくやったよ」という雰囲気なのかなと思っていたら、その日の夜、監督が、「明日は絶対に取りに行くぞ」と活を入れたんです。それが印象的で。だからこそ僕らは次の日(の再試合)に初回から攻めのプレーができたと思っているんですけど。
島袋 前日は、対戦相手のデータをまとめて、僕らは早くミーティングを閉じた記憶があります。ただ、決勝が終わった後に、我喜屋優監督から、「お疲れさん」「頑張ったな」という言葉をもらったときは、ああ、頑張ってきてよかったなあと。それを一番覚えています。ちょっと認められたかなと。
斎藤 あのときのメンバーとは今も会うことはありますか。
島袋 コロナ前は結婚式に同級生で集まってどんちゃんしてたんですけど、いまはコロナで、県外組もなかなか帰って来られないので、少人数で集まっています。
斎藤 僕たちはすごく集まります。グループLINEとかもあるし、よくコミュニケーションをとっています。当時の話もよくしますし、そんなのが楽しいじゃないですか。
島袋 何にも気を使わずにいろんなことも言えるし。酒を飲んでも楽しいし。
斎藤 春夏連覇して、沖縄に優勝旗を持ち帰ったときはどんな気持ちでしたか。
島袋 正直、実感がなくて。まさかという部分もあったのですが、当時の報道で数千人が那覇空港に出迎えてくれて、ああ、優勝したんだなと。
斎藤 僕もね、夢を見ているみたいだなと。東京に帰ってきたときにファンの方たちがいっぱい待っていてくれて、ああ、本当だと。
斎藤 高3のとき、招待試合で沖縄を訪れたことがあって、地元の方たちが、指笛を吹いてすごく盛り上がるんですよ。
島袋 みんな、ピーピーやりますね。
斎藤 島袋さんもピーピーできるんですか。
島袋 できます。小学校のときに練習しました。
斎藤 練習するんだ。ところでいま、沖縄に興南のコーチとして戻ってきましたが。
島袋 野球を通してたくさんの方々にお世話になってここまで来られた。沖縄に育ててもらったので、次の世代にいろいろ伝えていきたいと思っています。
斎藤 僕も今はこうやって取材したり、勉強したりする中で、いつか指導者に、っていう思いはあるんです。指導は楽しいですか。
島袋 楽しいです。高校生の成長って早いし、目に見えてわかる部分もありますので。
斎藤 僕はプロでもね、本当はもっと活躍したかったし、思い描いていた選手生活じゃなかったのかもしれないけど、その経験はいつか選手たちを指導するという立場になったときに生かしたいです。
今年沖縄が返還されて50年ですが、何か思いはありますか。
島袋 50年前のことや、それ以前のことはわからないのですが、こうやって野球をやっているということに関しては、先代の方々が苦しい、つらい経験をされてきたからこそ、いま幸せに野球ができているんだなと、改めて思います。
斎藤 そうした経験をしている方たちが身近にいることで感じられることもあるのではないですか。
島袋 個人的にはおじい、おばあにそういう話はあんまり聞いたことはないんです。ただ、平和学習を受けたり、防空壕(ごう)に行ったりして肌で感じることもあったので、伝えていかないといけないと思っています。
斎藤 この夏、甲子園で戦う球児たちにエールをお願いします。
島袋 しっかり準備をして自分たちの全力を出し切れるよう頑張ってほしいなと思います。
斎藤 今の時間は戻ってこないので、一緒に苦しみながら頑張っている仲間たちとの時間を大切にしてほしい。いつか、いい思い出話として話せるので、みんなと一生懸命に向き合ってほしい。そう言いたいです。
■斎藤佑樹さんより
甲子園で優勝したからこその経験を共有できる貴重な取材になりました。その経験を指導に生かしている島袋さんを見て、僕自身も野球界に恩返ししたいという思いが強くなりました。取材の後に、興南が甲子園出場を決めました。選手たちの活躍を期待しつつ、沖縄の高校野球の歴史に確かな一歩を刻んだ島袋さんが今後の沖縄の野球界をどう引っ張っていってくれるのか、楽しみにしています。
◇
さいとう・ゆうき 1988年、群馬県生まれ。早稲田実の元エース。2006年、第88回選手権大会で優勝。駒大苫小牧(南北海道)との決勝引き分け(延長15回)と、翌日の再試合は甲子園の歴史に刻まれている。マウンドで汗を拭く姿から「ハンカチ王子」と呼ばれた。早大に進学後、2010年秋のドラフト会議で1位指名を受け、日本ハムに入団。21年に引退。今春から高校野球情報サイト「バーチャル高校野球」で各地の高校を取材している。
◇
しまぶくろ・ようすけ 1992年、沖縄県生まれ。興南の元エース。2010年、第82回選抜大会、第92回選手権大会を制し、春夏連覇を達成。沖縄勢として初の選手権優勝を成し遂げた。体をひねって投げる「トルネード投法」が持ち味。中大に進学後、14年秋のドラフト5位でソフトバンクに。19年に引退し、20年4月から興南学園入試広報室の事務職員。翌21年2月から興南野球部副部長(コーチ)に就任。