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「甲子園に忘れ物がある」 歴史を作った名将が言い続けた真意とは

2022年6月16日14時30分

朝日新聞DIGITAL

 復帰から50年。18日、全国の先陣を切り、全国高校野球選手権大会沖縄大会が開幕する。米軍の統治下、甲子園にあこがれた球児がいた。高校野球に沖縄の誇りをかけた監督がいた。甲子園で活躍後、次世代を見守る元選手がいる――。

 那覇市で開かれている写真展。ユニホームの男性が指導する写真など約300点が並ぶ。入り口に置かれた大学ノートには、来場者の感想がつづられていた。

 「現在、息子が沖水野球部でがんばっています。天国から見守って下さいね」

 「沖縄の野球の発展に頑張ってくれた先生」

 被写体は栽(さい)弘義監督。沖縄水産(沖水)野球部を率いた名将だ。1990年と91年、夏の全国高校野球選手権大会で同校を2年連続準優勝に導いた。

 沖縄本土復帰50年を記念した写真展。企画したのは、イラストレーター吉見万喜子さん。栽監督を多くの人に知ってほしいと開いた。

 栽監督は、2007年に65歳で亡くなるまで沖水で監督を続けた。

 「甲子園に忘れ物がある」

 栽監督が何度も語っていたのを、元県高野連理事長の安里(あさと)嗣則さん(82)=沖縄市=は、覚えている。

■米兵の野戦用テントで作ったグラブ

 優勝――。それを取りに行くまで引退しないと聞いていた。その決意だったのか。60歳を過ぎても監督を続けていた。

 安里さんは、栽監督と同世代。幼い頃、家族で渡ったサイパンから引き揚げ、生まれ故郷に戻った。沖縄本島中部のうるま市石川東恩納。そこで野球に出会った。終戦直後、米軍の統治下だった。

 学校から帰るとカバンを投げ出し、米軍の野球を見に行くのが楽しみだった。

 安里さんの記憶では、部隊同士が試合をしていた。外野のフェンスはなく、あったのはベンチとバックネットだけ。矢のような送球をするプレーに目を見張った。試合が終わると、ホームランになったボールを拾いに行った。拾ったバットも修理して近くの高校に売りに行った。

 野球道具は本土に比べて高い。米軍が使っていた丈夫な野戦用テントを使い、指の形に切って、綿を詰めた。手作りのグラブだ。

 まだ、沖縄県勢の甲子園出場がなかった1958年春。コザ高校に進学していた安里さんは、日本高野連幹部の招きで、他校の代表球児らと甲子園を訪れ、選抜大会を観戦した。

 「うらやましいと思ったね。(選手らの)ユニホームはきれいにそろい、歩き方も風格があった」

 甲子園の土は軟らかくきれいに整備されていた。こんなところで試合をしてみたい。目を大きくしてずっと見ていた。

 当時、沖縄は指導者が不足していた。高校卒業後、安里さんは日本体育大(東京)へ、栽監督は中京大(愛知)へ、それぞれ野球を学びに行った。

 ともに県内の高校で指導者になってからは、お互い野球の本を交換し合うなどして学び合った。当時の沖縄には防球ネットやバッティングケージなどの設備もない。安里さんは、自ら溶接の免許を取り、作った。

 沖縄が日本に復帰した72年。県高野連の選手強化担当として、県内の球児を集めて遠投や1500メートル走などの記録を競わせる「野球部対抗競技大会」を始めた。

■妥協なし、練習の時もプレッシャー

 安里さんや栽監督の努力が実り、沖縄県勢は全国で存在感を高めていく。

 栽監督は80年から沖水の監督に。県下から生徒を集め、強豪校へ育てていく。

 プロ野球の巨人などでプレーした大野倫(りん)さん(49)は、91年の沖水準優勝時のエース。

 「(当時)県民には本土に対してコンプレックスもあれば、犠牲になったという部分では、それよりも強い反骨心もあった」と振り返る。

 栽監督は、体が小さかった沖縄の球児たちを鍛えようと、ウェートトレーニングを先駆的に取り入れた。練習から、常にプレッシャーを感じるほどの気迫。勝利に対する妥協は一切なかった。

 結局、優勝には一歩届かなかったが、沖縄尚学が99年と08年に選抜大会優勝、10年には興南が春夏連覇と続いた。

 大野さんは今、沖縄で中学生に硬式野球を指導している。19年にはNPO法人を立ち上げた。園児や児童にキャッチボールなどを教える。小さい頃から野球に触れてもらい、裾野を広げたいと思う。

■「流出」か「進出」か

 3年生の選手権大会では、6試合を投げ抜いた。ひじを痛め、投手生命を絶たれた。連投、球児のけが予防の議論や対策につながるきっかけになった。本人は「栽先生に対するわだかまりはない」という。

 ただ、今の子には、当時のような指導をするのは難しいと感じる。「ゆるく・楽しく志向と、勝負との間でバランスを取りながら」

 県外の強豪校へ進学する子も近年、目立つ。甲子園で沖縄県勢の活躍を期待する人の中には「流出」と見る向きもある。

 高校時代は、マウンドで熱い県民の応援に支えられてきた。沖縄から甲子園を目指すやりがいもよくわかっている大野さんだが、考えは違う。

 「沖縄の野球のレベルが上がったからこそ」

 むしろ、「進出」ととらえる。

 そして、思う。沖縄で頑張るのも良し、外へ出てチャレンジするのも良し、と。

 本土復帰から50年。大野さんは球児に「またとないこの瞬間に全てを出しきること、やりきること」とエールを送る。(稲垣大志郎)

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