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支社長になった番長や芸能人も 強豪野球部、華麗なる転身の系譜

2022年5月3日13時00分 朝日新聞デジタル

 私が肌身離さず持っている写真がある。

 丹波慎也がマウンドで投げている。横浜高2年の1995年夏、急性心不全で亡くなった。2学年下の松坂大輔(41)も憧れた伝説の投手だった。

 その丹波とバッテリーを組みたいと入学したのが、1学年下の上地雄輔(43)だ。投手を明るく包み込むようにリードする大型捕手だった。

 人間として裏表がなく、誰とでも真っすぐに付き合う。我慢強さもあった。

 だから、右ひじを痛めてしまったのかもしれない。私も早く気づいてあげられなかった。丹波―上地、松坂―上地という大型バッテリーを実現することができなかった。

 約50人の教え子がプロ野球へと巣立つ中で、たくさんの失敗や後悔がある。タレントになった上地のように、野球で学んだことを人生に生かしてくれていると本当にうれしい。

 横浜高校野球部を長く率いた渡辺元智さん(77)は回想する。

 68年に24歳で監督になった頃は、京浜急行沿線のワルや番長が集まるような野球部だった。私も若かったから、体ごとぶつかった。生徒に逃げられないよう、離島の伊豆大島で合宿をした。日本一厳しく、長い練習をすれば、日本一になれると信じていたころだ。

 そんな落ちこぼれたちがすごい力を発揮したのが69年夏。神奈川大会の決勝で原貢監督率いる東海大相模に敗れたが、快進撃を見せてくれた。

 すると、野球部を創部して間もない大東文化大学が選手をごっそり迎え入れてくれた。彼らは3年後、首都大学リーグで初優勝を飾り、大学でも主将を務めた山際稔(70)は社会人野球のいすゞ自動車に入社した。やがて同社のデトロイト支社長になったと聞いた時は驚いた。

 山際は横須賀の番長で不良を束ねていただけに、統率力は抜群だった。義理人情にも厚い。私のスパルタ指導に食らいつき、仲間を叱咤(しった)激励してくれる男だった。当時のメンバーとは定期的に会合を開いている。

 小野貴樹(57)も神奈川大会決勝(83年)で横浜商に敗れ、甲子園には行けなかった世代の主将だ。彼は文武両道を貫き、真夜中まで勉強をしていた。横浜市立大学に進学して銀行マンになり、5年前、三井住友銀行の常務執行役員になった。

 若いころはむちゃな指導もしたが、彼らが社会に出て頑張ってくれているのが、私にとっても心の支えになった。

 愛甲猛(59)の時代から、松坂、涌井秀章(35)、筒香嘉智(30)、そして、孫の渡辺佳明(25)まで、プロ野球の世界に飛び込んだ教え子たちのニュースとは、また違った喜びを感じる。

 やがて人生の勝利者になれ――。

 教え子に贈り続けている言葉だ。レギュラーになれなくても、甲子園に行けなくても、プロ野球選手になれなくても、野球部で頑張った日々は無駄にならない。そのことを彼らは証明してくれている。(構成・安藤嘉浩)

 わたなべ・もとのり 1944年、神奈川県出身。24歳で母校・横浜高の野球部監督になり、甲子園で春3度、夏2度優勝。30代で大学(夜間)に通って教員免許を取得し、社会科教諭に。2015年夏を最後に勇退。

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