ぜんそく患っていた明豊投手 母と2人でつかんだ甲子園
第103回全国高校野球選手権大会で、明豊(大分)は初戦で敗退した。その夜、川崎絢平監督は最後のミーティングで、コロナ下で野球ができるありがたさを語り、選手に語りかけた。「当たり前ではない。特に今は。みんな苦しい中でお金を出してくれた。今後の行動で感謝を示してほしい」。選手と親。二人三脚でともに歩んできた家族の話を紹介する。(倉富竜太)
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明豊の初戦。甲子園のスタンドで、一人の女性がマウンドを見つめていた。明豊の投手「三本柱」の1人、財原(さいはら)光優(あきひろ)投手(3年)の母親弘子さん(51)=大阪市城東区=だ。生後半年から、弘子さんが1人で手塩にかけ育ててきた。
財原投手は一人っ子。幼少の頃からぜんそくを患っていた。ぜんそくを治すために水泳を始めたほか、野球やそろばんを習うようになったという。弘子さんは「1人親だからって、かわいそうな思いだけはさせたくなかった」と振り返る。
安定した収入を得るため、半年間学校に毎日通ってヘルパーの資格を取り、介護職員になった。息子は両親に預かってもらって夜勤にも入り、ほとんど寝る間もなく働いた。
息子が中学に入学すると、日中働けるデイサービスの職場に転職した。多感な時期。「夜に母親がいないのはあまりよくない」と考えたからだった。そんな母を息子は「体、大丈夫?」といつも気にかけてくれていたという。
息子のぜんそくは小学5年には改善。所属した少年野球チーム「大阪東ボーイズ」で投手として大活躍し、中学3年の時には日本代表に選ばれ、豪州であった世界大会に出場した。
弘子さんは「光優を育てるのに大変だと思ったことは一度もない。むしろ、私を豪州につれていってくれて、本当にうれしかった。いつも元気をもらっています」と語る。
春の選抜大会に続いてこの夏も、弘子さんら保護者は、甲子園入りした選手たちのユニホームを洗濯したりして支えた。「子どもたちのユニホームはがんばっている証し。洗濯もうれしくなります」と話す。
財原投手は専大松戸戦で中継ぎで登板し五、六回を投げた。1点を失ったが、力投した。試合後、弘子さんにLINE(ライン)でメッセージが届いた。「ごめん。勝てんかった」。弘子さんは打ち返した。「ここまで連れてきてくれてありがとう。楽しませてもらったよ」
弘子さんは試合後、「これからも、光優が大好きな野球を続けられるようがんばっていきます」と明るく語った。