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球音守る 10年前の夏の戦い

2021年7月16日09時00分 朝日新聞デジタル

 10年前の夏、夏の甲子園をかけて球児たちが白球を追う舞台を守るため、福島県の大人たちは試行錯誤した。生徒や指導者の避難、放射能対策、世間の厳しい目線――。多くの試練を乗り越えて開いた大会は、当時、福島県高校野球連盟の理事長だった宗像治さん(68)=福島市=の胸にいまも深く刻まれている。

     ◇

 ――東日本大震災と原発事故で、高校野球も危機に直面しました。

 「非常に大きな被害がありました。海のすぐ脇にあったいわき海星高校(当時)は校舎やグラウンドに津波が押し寄せ、野球道具も流されました」

 「原発事故の影響で(福島第一原発に近い)浜通りの学校を中心に、多くの生徒や指導者が県内外へ避難しました。消息の確認には約1週間かかりました。県内すべての高校にアンケートをすると、ほとんどの学校が春の大会に出るのは無理だが、夏はやってほしいと回答しました」

 ――震災の年、春は支部大会から県大会、東北大会まですべてが中止になりました。

 「(福島第一原発のある)相双地区は加盟校が10校ありました。多くの学校は、生徒が避難先の複数の高校に分かれて授業を受ける『サテライト校』の体制で、生徒を集めるのが難しく、野球ができる状況ではありませんでした。屋外活動は校長の判断に任され、放射線量が高い地域もあり、5月ごろまで屋外活動を禁止した学校もありました」

 ――非常事態の中、夏の大会の開催に向け、どんな思いで準備しましたか。

 「私も高校野球を選手として経験していますから、高校3年生が最後の夏の大会にかける思いはわかります。実際、各学校の指導者と話していて、夏の大会を開催して欲しいという思いをひしひしと感じたので、とにかくやらせたいという義務感がありました」

 「非常に頭を悩ませたのが、放射能への対応です。国は当時、学校の屋外活動の基準を毎時3・8マイクロシーベルトとしていました。各球場で線量を測定し、基準を超えたら試合を中止すると決めました。ただ、国の基準を甘いと考えて大会の中止を求める電話もあり、『人殺し』と言われたこともありました」

 ――放射能への対応はどのように進めたのですか。

 「県高野連に震災対策会議を立ち上げ、課題を出し合いました。専門家を呼んで『雨のなかで試合をして大丈夫なのか』『スライディングは禁止すべきか』といった不安について、答えてもらいました」

 「開会式の時間も短くしようと、入場行進は例年のように各チームがグラウンドを1周するのではなく、センターから内野に一斉に行進するだけにしました。あいさつの代読はなくし、試合前のノック時間も短くしました。原発に比較的近い、いわきグリーンスタジアムの代わりに(内陸部の)会津坂下町の鶴沼球場を使いました。幸い、大会中に基準の線量を超えて試合が中止になることはありませんでした」

 ――大会には前年並みの89校87チームが参加しました。印象に残っている試合はありますか。

 「原発事故後に転校などで部員が減った双葉翔陽、富岡、相馬農の3校連合チーム『相双連合』の試合です。当時はまだ日本高野連の規定で、統合する学校でしか連合チームが認められていませんでした。私が会議の席や電話で説明し、震災特例で認められました」

 「相双連合は初戦で喜多方高校と対戦し、六回まで無安打で8―0で負けていました。このまま終わるかと思っていたところで、富岡高校の中村公平君(3年)がレフトスタンドにホームランを打ったんです。その時は連合チームの子どもさんや学校関係者が優勝したかのような騒ぎになって、僕も鳥肌が立って、涙が出てきた」

 「試合以外でも、感激したことがありました。連合チームの応援で球場に来た生徒たちは普段、避難先の学校でばらばらで授業を受けていました。だから、4カ月ぶりの再会で抱き合って泣いている姿を至る所で見ました。球場は野球だけでなく、再会の場にもなっていたんです。浪江高校の生徒たちが応援でAKB48の曲『会いたかった』を歌ったことも話題になりました」

 ――県外から数多くの支援もありました。

 「全国の個人や企業、各県の高野連から、野球のボールなどの支援物資や義援金をいただきました。ソフトバンクで活躍している和田毅投手は、双葉高などの選手たちの送迎用として、県高野連にマイクロバスを寄贈してくれました。ほかの県の高野連の理事長が『福島の球場が線量が高くて使えなかったら、うちの球場を貸すから。とにかく夏は一緒にやろう』と声をかけてくれたこともうれしかった。全国の多くの人に支えられ、高校野球が成り立っているのだと改めて痛感しました」

 ――全試合で観客の入場料を無料にしました。

 「入場料の無料は早い段階で決めました。大変な非常事態ですから、たかが高校野球かも分からないけども、高校生の元気な姿、はつらつとしたプレーを多くの人に見てもらい、少しでも元気になってほしい、復興の一助になればという思いがありました」

 ――決勝は聖光学院が須賀川を破り、5年連続8度目の優勝を果たしました。

 「決勝は七回から雨が降ってきました。事前に専門家に相談し、雨の中の試合も問題ないと言われていましたが、世間には『雨にあたるとまずい』という風潮がありました。だから、そういう姿はなるべく避けたいと思っていました。決勝だけはコールドゲームがなく、中止になれば再試合ですから、困ったなと思いました。最後まで安心できないんだなと」

 「決勝後の閉会式は、選手をできるだけ雨に当てないため、開成山球場の一塁側にある室内練習場でやりました。閉会式を室内でやったのは初めてでした。大会が無事に終わると、どっと疲れが出ました。野球をやっていいか、迷うところからスタートして最後は無事に終わってほっとして、忘れられない大会になりました」

 ――原発事故の影響からか、福島県内の高校球児の数は近年、全国的に見ても減少のスピードが早い状況にあります。

 「震災前から、子どもの数が減る傾向はありましたが、原発事故で加速されてしまった。相双地区の県高野連への加盟校は10校から7校に、部員は地区全体で300人弱から約140人に減りました。高校で野球をやる生徒を増やすために、すでに地区ごとに高校の指導者が中学生を集めて野球を教える講習会をやっていますが、そうした連携が今後ますます大切になると思います」

 ――昨年は新型コロナウイルスの影響で、夏の甲子園が中止になりました。いまの状況と10年前が重なる部分はありますか。

 「見えないものとの戦いだなという意味で、重ねて見える部分はあります。僕は震災の時に大会をやって非常によかったという経験から、こういう時だからこそ、子どもたちの元気な姿が閉塞(へいそく)感を打破する一歩になるんじゃないかという思いはありますが、ただ、安全が第一。安全安心が担保されなければいけない。子どもたちのため、大人はそういう場を設定する責任があると思います」(聞き手・福地慶太郎)

     ◇

 むなかた・おさむ 1953年7月、旧原町(現・福島県南相馬市)生まれ。71年、磐城高の中堅手として夏の甲子園に出場し、準優勝を果たす。早大進学後は準硬式野球部で活躍。県立高校社会科の教員となってからは安積、棚倉の野球部監督を経て、88年春、福島北を選抜16強に導く。2004年から10年間、県高野連理事長を務めた。20年から、日本高野連評議員。

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