スポブルアプリをダウンロードしよう

  • Sportsbull Android App
  • Sportsbull iOs App

すべて無料のスポーツニュース&動画アプリの決定版!

QRコードを読み込んでダウンロード

Sportsbull QRCode

「女の王選手になる」と渡米 球場に整列して涙あふれた

2021年7月26日09時00分

 今につながる女子野球の流れを作った第1回全日本女子軟式野球選手権大会は1990年8月に開かれた。大会を取材した僕は、開催に尽力した川越宗重(67)=現全日本女子軟式野球連盟会長=に試合しようと誘われた。実業団経験者から若手までの女子選抜チームと朝日新聞運動部(当時)チームが戦い、ものの見事に負けた。

 その時の女子選手が95年1月、驚きの行動に出る。当時26歳の鈴木慶子(53)が米国の女子プロ野球チーム「コロラド・シルバーブレッツ」のトライアウトに参加したのだ。前年にビール会社クアーズの出資で設立され、大リーグ傘下の1Aチームと対戦して話題を集めた。米国では92年に映画「プリティ・リーグ」がヒットし、女子野球人気が高まっていた。

 米国に渡ってプロ野球選手になる――。鈴木が思ったのには理由がある。幼い頃、巨人の王貞治(81)がプロ野球でホームランを打ちまくっていた。「誕生日が私と同じ5月20日で、左投げ左打ちも一緒。神様は私に野球をやれと言っている。私は女の王選手になるんだ」と信じて疑わなかった。

 小学4年生で横浜市の女子軟式チームに入った。女性左腕投手の水原勇気がプロ野球で活躍する漫画「野球狂の詩(うた)」(水島新司作)が人気で、一本足打法の背番号「1」を女性投手がきりきり舞いさせるピンク・レディーの「サウスポー」が大ヒットしていた。

 軟式野球を続けていた鈴木は米国でのトライアウトで壁にぶち当たる。身長180センチ級の大型選手ばかりで、163センチの鈴木はいかにも小さい。「初めての硬式ボール、木製バット。英語も分からない。全く手応えがなかった」

 いったん帰国したが、「日本にいたら来年も合格できない」と再渡米し、フロリダ州の女子リーグに参加した。冬場は日本でアルバイトをしてお金をため、春から夏にかけて米国で野球をする生活を3年続けた。「みんな明るくて、どんどん打っていく野球が楽しかった」。パワー不足を俊足でカバーして奮闘したが、4年目の98年、開幕早々にリーグは中断し、そのまま消滅してしまう。

 鈴木はめげない。米国挑戦を応援してくれたメジャーリーグ評論家の福島良一(64)に「日本でチームを作ってフロリダの大会に参加しよう」と提案され、大塚製薬をスポンサーとする「チーム・エネルゲン」を結成して99年4月、フロリダへ渡った。

 最初の試合前に整列した時だった。「君が代が流れたんです、フロリダの球場に。もう涙が出た。感動した。ああ、日本の仲間と一緒に来たんだって」

 非公式ながら、今に続く女子日本代表チームの第一歩である。

 さらに鈴木は「野球好きな女子が誰でも自腹で参加できる海外遠征チームを作ろう」と、2001年に「ファー・イースト・ブルーマーズ」を立ち上げた。米国や豪州、香港などに毎年行き、現地の女子チームと野球をする。日本代表前監督の橘田(きった)恵(38)も現監督の中島(なかしま)梨紗(34)も参加した。

 「大した選手じゃなかったけど、野球が好きで海外にも友だちができた。野球が好きな気持ちで人と人をつなげる。それが私の役割だと思う」と鈴木はいう。

 今夏の全国高校女子硬式野球選手権大会決勝が阪神甲子園球場で開催されると発表された4月、橘田ら何人かの仲間から「ありがとうございます」「鈴木さんのおかげです」とLINEが届いた。「ああそういう時代になったんだと感慨深かった」。王貞治に憧れた少女は今も週末になると、横浜市のグラウンドで白球を追う。=敬称略(編集委員・安藤嘉浩)

関連記事

アクセスランキング

注目の動画

一覧へ