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握ったのは白球でなく操縦桿 戦火に奪われた甲子園の夢

2021年7月11日18時45分

 ちょうど80年前の夏、戦争の影響で、昨年と同じように甲子園への夢を絶たれた球児たちがいた。高崎商(群馬県)OBの江原康雄さん(94)もその一人だ。白球ではなく、戦闘機の操縦桿(かん)を握る青春の日々を過ごした。2年ぶりに甲子園をめざす後輩たちに「平和な世の中で野球ができる幸せをかみしめて」と伝えたいという。

 高崎市の農家に生まれた江原さん。高崎商が4度目の甲子園出場を果たす1940年4月、野球部に入部した。だが、入部したばかりの江原さんは甲子園には行かなかった。

 当時は野球用具も高額で、なくしたり壊れたりしてもすぐに買い替えられなかった。練習後にボールの数が合わないと、懐中電灯を持って暗くなったグラウンドを探し回った。グラブもボールも、ほつれたところを手縫いで直すのは、下級生の仕事。徹夜で作業して、授業で居眠りしたこともあった。

 だが、翌41年の夏、全国中等学校優勝野球大会(現・全国高校野球選手権大会)は戦火の拡大を受けて中止になった。文部省がスポーツの全国的な催しを中止するよう通達を出したためだ。それでも地方大会は開かれ、群馬県高校野球連盟の「群馬県高校野球史」によると、同県では9校の球児123人が参加した記録が残る。江原さんも控え選手としてベンチ入りした。

 その後も、全国大会は敗戦の45年まで中止され、江原さんの甲子園への夢は途絶えた。

 江原さんは、航空戦を重視した陸軍が募集した特別操縦見習士官(特操)を志願。「赤とんぼ」と呼ばれた練習機で、離着陸や宙返りを繰り返した。厳しい訓練の中、野球のことを思い出す暇はなかった。

 敗色が濃くなり始めていた頃、特攻隊に加えられた。配属された岐阜県の飛行場で仲間の出撃を見送る日々。「次は自分の番かも」。死を覚悟する緊張の中で過ごしたが、終戦まで江原さんに出撃命令は来なかった。軍の上官から敗戦を伝えられたのは、玉音放送が流れた8月15日から数日後。「ああ助かった。生き残った」。体中の力が抜けた。

 千葉県の九十九里浜などからの米軍の上陸や関東侵攻に備え、45年9月には群馬県内の飛行場へ異動が決まっていた。「日本がポツダム宣言を受け入れるのがあと少し遅ければ、命はなかった」。敗戦を悔しいとは思わなかった。ただ、戦争が終わってよかったなあと、しみじみ思った。

 終戦後、国鉄に就職。49年から高崎鉄道管理局の野球部でプレーした。「まさかまたユニホームを着られるなんて、思ってもみなかった」。久々に握ったボールが懐かしく、うれしかった。

 今でも「甲子園という夢の舞台に立てなかった無念さはある」と言う。後輩たちにその夢を託そうと、物資が不足していた戦後まもなくから、自身が何度か使ったものも含め、ボールやバットなどの道具を何度も母校へ寄付した。

 35歳までプレーし、都市対抗野球では全国大会にも出場。職員としては高崎駅長も経験し、定年まで勤め上げた。

 今年は、創部100年を迎えた母校野球部の「百年史」編纂(へんさん)も見届けた。94歳になったいまでも、テレビや新聞で、高校野球のニュースをチェックするのが日課だ。

 昨年の選手権大会中止にも、胸が痛んだという。「子どもたちは本当に気の毒。でもそれは人生の1コマで、努力が無駄になるわけじゃない。社会に出て苦しみと出会ったとき、その経験を糧に『あの悔しさに比べたら何でもできる』と自分を奮い立たせる人生を送ってほしい」と思いやる。

 今年は2年ぶりに選手権大会が開催される。江原さんも、テレビ中継で応援するつもりだ。甲子園を目指す後輩たちにもエールを送る。「去年発揮できなかった力や先輩たちの悔しさも背負って、今年にぶつけて頑張ってほしい」(松田果穂)

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