球児が書いた未来新聞 決勝翌日は「長田 ついに栄冠」
2021年7月14日17時15分 朝日新聞デジタル
外角低めの直球をフルスイングした。打球は左中間へ。長田高校(神戸市長田区)の副主将・前川健太朗君(3年)は仲間の歓声を感じながら、三塁へ滑り込んだ。
3月29日、岐阜県の長良川球場での練習試合。三塁手でスタメン出場し、結果を出してみせた。
実はこの活躍、約3カ月前に「予告」していた。A4の紙に自分で書いた「未来新聞」。
見出しはこうだ。
《苦難乗り越え花開く》
記事の中の自分は、けがも試合に出られなかった悔しさも乗り越え、輝きを放っていた。
三塁に滑り込んだ時に足をねんざし、「満開」とはならなかったけれど。
◎
小学5年の冬。少年野球の監督に連れられて長田の練習を見た。きびきびと練習する選手に憧れた。
受験を突破し、2019年春、野球部員になった。
でも始まったのは、けがと戦う日々。
入部約1カ月後には肩を壊し、その年の秋には腰椎(ようつい)分離症と診断され、走ることもできなくなった。ようやく翌年2月にはチームの練習に戻れたが、新型コロナウイルスの感染拡大で一斉休校となってしまう。
「周りとの差を埋めるチャンスにしよう」。そう切り替え、毎日2時間以上の自主練習で、体幹や足腰を鍛え、走り込んだ。
2年生で迎えた昨夏の独自大会。ブルペン捕手として、下級生ではただ一人ベンチ入りできた。
その矢先、またもアクシデント。今度は手首。さらに肋骨(ろっこつ)も骨折。2年生主体の新チームで迎えた昨秋の県大会は、ベンチ入りしたが出番はなかった。
勝利を重ねる仲間たちを、ベンチから見つめた。上位3校に食い込み、70年ぶりの近畿大会へ。
躍進するチーム。力になれない自分。置き去りにされたような気がした。
野球が楽しくなかった。
◎
気持ちを切らさないために。握ったのは、バットではなく、鉛筆だった。
頭にあったのは、あるスポーツ選手のエピソード。五輪前、「金メダルをとりました。ありがとうございます」と書いた紙を、冷蔵庫に貼った。自分に暗示をかけたようだ。実際、この選手は金メダルを獲得してみせた。
幼い頃から新聞を読むのが好きだった。まずは秋の大会期間中、活躍した自分の特集記事を3本書き上げた。
けがから復帰後、三塁手に転向。再起への決意を昨年末、改めて新聞にした。
秋よりも大きな記事。この時、初めて「未来新聞」と名付けてみた。約3カ月先に決まった岐阜遠征の翌3月30日付。《苦難乗り越え花開く》という見出しだった。
自分へのインタビュー記事はこう始まる。
《試合後のグランドに輝くキラキラした笑顔。そうこの男が、最も輝きを放った男と言っても過言ではないだろう。その名は前川健太朗》
けがで足踏みした。
《走ることもできず、ただひたすら体幹を鍛える日々。「本当に辛かったですね」》
チームの活躍を見つめるしかなかった昨秋の県大会。
《皮肉にもチームは勝ち進んでいく。「勝ってもあまり嬉しくないし、学校で『おめでとう』と言われるのも辛かった。」》
遠征試合での活躍ぶりもリポートしている。
《前川は打ちまくった》
《秋の悔しさを忘れるな――。苦しい練習から逃げそうになったときは、いつもこの言葉を思い返して踏んばってきたという》
こう書き上げた未来新聞は、自宅の机のシートの下にはさんだ。いつでも目に入るように。
「『こんなことを頑張ってきました』と未来新聞に書いてしまえば、練習をやらないわけにはいかないんですよね」
◎
未来新聞どおりの三塁打で捻挫した足が治らぬまま、チームは4月18日、春の県大会2回戦で7回コールド負けを喫した。
試合後、球場で涙を流す仲間を見て思った。「このままでは終われない」
新聞を書きたい衝動に駆られ、その日のうちに机に向かった。
完成したのは、7月30日付の未来新聞。同3日から始まる兵庫大会の決勝翌日の紙面だ。
《長田 ついに栄冠》
こんな大見出しだ。
春の大敗を糧に意識を変え、夏の甲子園の切符をつかんだ自分たちが書いてある。