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病床でも語った高校野球愛 故・宮武さんに育成功労賞

2021年6月26日09時30分 朝日新聞デジタル

 2年前の夏、岡山代表の岡山学芸館が甲子園球場で3回戦に挑んだ8月16日。県高野連をとりまとめる現職の専務理事だった宮武一士(かずし)さんは、65歳で死去した。病床でも岡山の高校野球を考え続けた情熱は、後任に引き継がれている。今年、高校野球の育成と発展に尽くした指導者として、日本高野連と朝日新聞社から「育成功労賞」に選ばれた。

 瀬戸内海を望む倉敷・児島の田の口地区の出身。幼い頃から体格がよく、「将来は相撲取りに」と期待する声も地元にはあった。

 野球との出会いは中学。旧琴浦高校(現・倉敷鷲羽高校)で野球部に入り、捕手や内野手としてプレーした。甲子園出場はかなわなかった。日体大に進んで野球を続けたが、途中からは後輩らへの指導がメインになったという。

 卒業後は倉敷に戻り、1977年から高校の体育教師となった。旧琴浦高や旧児島高(現・倉敷鷲羽高)、岡山大安寺高などに勤め、84年以降は野球部の監督、部長として26年を過ごした。

 「とにかく勝負へのこだわりが強かった。指導は厳しくて熱かった」

 旧児島高で宮武さんの指導を受けた平賀康さん(42)=現・金光学園野球部長=は振り返る。平賀さんが捕手だった96年夏。岡山大会3回戦の相手は、大会連覇中の関西だった。延長十回にもつれ込んだが、サヨナラ負け。

 互角の展開に持ち込めたのは宮武さんの力も大きかった、と平賀さんは振り返る。「常に生徒の先頭に立ち、元気よく大きな声で汗を流して情熱的に指導していた。自主性を重んじ、ワンプレーの意味を考えることの重要性を説いた」。県高野連はそんな表現で宮武さんをたたえる。

 99年に県高野連の理事に。2016年には専務理事に就いた。だがその後、膵臓(すいぞう)がんに侵されていることが判明。19年夏の岡山大会では、妻弥生さん(61)=倉敷市=の介助を受け、球場に通った。午前中は必ずバックネット裏で試合を見守った。周囲には「家にいても退屈だから」とうそぶいたが、足を運んだのは専務理事としての責任感からだと弥生さんは思う。

 岡山学芸館が代表となった甲子園大会では、開会式に出ようと弥生さんとともに大阪へ。ただ猛暑を考慮し、周囲が甲子園行きを止めた。このころ、弥生さんは病床の宮武さんが意識がはっきりしないなかで「もっとノックの打球を低く」と指示するのを聞いた。「最後の最後まで高校野球のことを考えていたのでしょう」

 「甲子園で勝てるチームを作りたい」が口癖だった宮武さん。岡山代表の試合の日に亡くなり、2日後にあった葬儀には教え子ら1千人近くが参列した。バトンを受け継いだ野間貴之・県高野連専務理事は育成功労賞について「誰よりも熱い人。喜んでいらっしゃると思う」。そのうえで「本当に野球が好きな人だった。その遺志を引き継ぎ、伝え続けていきたい」と話した。

 育成功労賞の表彰は、26日の第103回全国高校野球選手権岡山大会の抽選会前にある。(雨宮徹)

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