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息づく、新名監督の教え 7回目の甲子園出場の宮崎商

2021年3月18日09時00分

 52年ぶり3回目の選抜大会出場を決めた宮崎商。甲子園出場は、これまでに春夏計6回を数え、このうち5回は1963~69年の故・新名(にいな)あきら(向の上に日)監督の時代だ。名将の教えは今も息づいている。

 宮崎商は1919年、宮崎町立商業学校として設立。57年、宮崎大宮から分離し、現在の宮崎市和知川原3丁目に移転した。新名監督は翌58年、新設間もない宮崎商の監督に就任。同志社大で三塁手として活躍し、社会人野球の選手を経て指導者になった。

 大淀川沿いのグラウンドは当時、雑草や石ころだらけ。新名監督は、練習環境を整えるため率先してくわを握り、小石を拾い集め、自宅で育てた芝生を外野に植えたという。練習後、部員たちが丁寧にトンボやブラシをかける伝統は、この頃に培われたという。

 新名監督が率いる宮崎商は、63年夏の45回記念大会の県大会決勝で宿敵・高鍋を4―3で破って甲子園初出場。甲子園では初戦は快勝したものの、2回戦で惜敗。翌64年夏は県予選、南九州大会を制して甲子園に舞い戻って快進撃。準決勝では、優勝した高知に0―1と善戦した。

 強豪となった宮崎商は入部希望者が100人規模に増え、66年春も出場。69年は、のちにプロ野球・ヤクルト初優勝に貢献した本格派右腕の西井哲夫さん(69)を擁して春夏連続出場も果たした。広島や阪急で強打者として活躍した水谷実雄さんら多くがプロに進むなど黄金期を築いた。

 新名監督は、どんな指導者だったのか。伝記などによると、「野球選手である前にまず学生でなければならない」が口癖だった。全員野球を重視した「強く正しい野球」。自宅に「新名学級」とも呼ばれた下宿を設け、西井さんら遠方の部員の面倒を見た。宮商野球の基礎は、新名監督の時代に築かれ、現在に至っているという。

 新名監督は74年に病のため53歳で死去。「長生きしていれば名監督として名前がもっと世に出たはず」。66年春のメンバーで、新名監督の後継として76年から10年間監督を務めた井上清美さん(71)は振り返る。

 私立強豪の台頭などで69年以降、40年近く甲子園から遠のき、次に出場したのは2008年夏。導いたのはOBの浜田登さん(53)=現富島高監督=だった。浜田さんも高校時代、井上さん宅に下宿し、宮商野球をたたき込まれた。

 教員となった浜田さんは03年、母校に異動。監督として指導に乗り出した04年に入部してきたのが、現在のチームを率いる橋口光朗監督(32)だ。

 浜田さん率いる宮崎商が夏の甲子園に出場した08年、臨時コーチを務めたのが東洋大2年だった橋口さん。教職をめざした橋口さんは、母校での教育実習の際に浜田さん宅で下宿し、薫陶を受けた。

 新名監督との「不思議な縁を感じる」という橋口さん。通算7回目の出場を表す7本のラインが入ったソックスの選手たちとともに、まだ勝利のない春での一戦必勝を狙う。(菊地洋行)

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