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PL破った気配りと観察眼 ベテラン記者語る「木内流」

2020年12月20日14時00分

 11月24日に89歳で亡くなった木内幸男さんは、取手二と常総学院の野球部監督として春夏の甲子園を制し、茨城県の高校野球史に大きな足跡を残した。指導歴は足かけ半世紀。つぶさに選手を見つめるまなざしが、原点にあった。取手二の全国優勝や常総学院の準優勝時の取材を担当した記者(63)が、間近で触れた「木内流」を振り返ります。

 2018年の夏の茨城大会の決勝。記者は木内さんが、「教え子対決」となった試合に足を運ぶと聞き、ノーブルスタ水戸の球場前で待った。

 「生きているうちにこんな機会があるとは限らないから、出て来たよ」

 佐々木力監督(当時)率いる常総学院と小菅勲監督の土浦日大のカード。木内さんは冗談交じりにこう話し、ネット裏の隅へ。記者も隣で解説を聞きながら一緒に試合をみた。

 四回表、常総学院が失策でピンチに。ぼやいた。

 「ここはマウンドに集めて『何やってんだ』と怒らないとダメなんだよ。『ドンマイ』と声をかけあっても、もやもやが残るから」

 一呼吸入れて、選手同士が言いたいことを言わないと、失策した選手も、他の選手も嫌な空気を引きずる、との趣旨だった。

 常総学院はこの回に6点を失い、甲子園への切符を逃した。

■一つ勝ったら、海でも山でも

 冷静さを失ったり、やる気が落ちたりといった選手たちの微妙な変化を見逃さず、声をかけるのが「木内流」だった。

 佐々木、小菅両監督がメンバーだった取手二が、1984年夏の全国選手権で優勝したときにも、随所に気配りが垣間見えた。

 「一つ勝ったら、海でも山でも好きなところに連れて行くから、みんなで話し合って決めろ」

 初戦の相手は、優勝候補の箕島(和歌山)。「勝ち目はない」と言いながら、選手たちに「つかの間の夏休み」という目標を与えた。試合前には「打撃のチームなんだから、1点や2点はお土産に取れよ」と素っ気なく言葉をかけた。

 試合は3点を追う八回、下位打線から火が付いて一挙5得点。逆転勝ちした。 翌日、神戸市の須磨海岸には波打ち際で遊ぶ選手の姿があった。いつの間にかどっぷり海につかって泳ぎ出す選手も。この様子がテレビのニュースに流れたこともあり、勝ち上がるうちに「のびのび野球」と呼ばれるようになった。

 決勝の相手は、桑田真澄さん、清原和博さんを擁するPL学園(大阪)。試合前、「優勝旗と準優勝旗、どっちでもいいよ」と、いったんは欲を隠して語りかけた。だが、途中で夏の選手権大会に「準優勝旗」がないことがわかり、「じゃ、勝ちに行け」。今度はそう言って選手たちを鼓舞した。

 このチームとともに、信頼に裏打ちされた選手との関係づくりを学んだ。

 この年のセンバツで4強入りを阻まれた後、エースが故障。選手の起用法を巡って監督と選手が衝突し、練習のボイコットも。6月にPL学園を招いて行った招待試合では、0ー13と大敗した。自主性を求める監督が自身の考え方を選手に説明し、衝突が収まった。2カ月後の大舞台でPL学園を下し、全国を制した。

 「こんなに面白いチームはなかった。暴れる時は暴れるし、いたずらする時はする。その代わり、ユニホームを着ると、最後は何とかなる。ちょっと跳ね返った選手を良い方向に向けさせるのが、監督の面白いところ。監督冥利(みょうり)に尽きる」。100回大会の前に水戸市内で開かれた対談会で、当時のチームをそう言って振り返った。

■取材中、まなざしの先に選手

 84年秋に常総学院に移ってからは、同校のグラウンドのネット裏が「指定席」だった。練習中は、マイクを通して細かい指示が飛ぶ。取材記者や関係者と話をしている最中も、遠くを見つめるような視線は、常にグラウンドの部員たちを追っていた。会話を遮って、部員たちに指示を出すことも度々あった。

 めまぐるしい選手交代で冷徹にみえる采配も、選手個々の力量や役割、相手の状況などを判断し、監督なりの理屈がある。

 「教員じゃないから、授業中の子どもたちの様子がわからない。その分、グラウンドで出来るだけ見るようにしている」

 目立たないように休んでいる部員、積極的に動き回っている部員……。個性を引き出す言葉は、選手たちの性格や意欲を見極める観察眼に裏打ちされていた。

 ■職業監督が教え込んだ甲子園マナー

 職業監督。教員でもなくほかに仕事を持っているわけでもなかった。高校野球の世界では、珍しい存在だった。

 1984年夏、取手二を全国制覇に導いた木内さんは、その秋から開校2年目の常総学院に移籍し、時に「優勝請負人」とも評された。「3年から5年で甲子園に行かないと、選手が集まってこなくなる」と話し、3年以内の甲子園出場を目指していた。新設校には無い伝統の壁を乗り越えたかった。

 常総学院の甲子園初出場は、思わぬ形で転がり込んできた。87年春センバツ。不祥事で千葉県の高校が辞退したため、開幕直前に代打出場が決まった。この時、木内さんは、甲子園での所作をチームに伝えた。

 現地入り後の紅白試合では、球場への入り方から練習した。ベンチに持ち込む荷物は極力少なくする。前の試合が終わったらすぐにグラウンドに入り、ベンチ脇に荷物をまとめて置いて、すぐキャッチボールを始める。甲子園では、スムーズな進行を求められる。その雰囲気にのまれないように、助言が続いた。

 紅白試合では、三振した選手が天を仰いで悔しそうな表情を見せると、「何やってんだ。三振したら頭をぺこっと下げて、まっすぐベンチに帰ってこい」。ヘッドスライディングで、口に入った砂を吐き出した選手には、「何のためにタオルを持ってんだ。それでこそっとぬぐえ。つばなんて吐いてテレビに映ったら、何を言われるか分かんねえから」。

 当時、茨城県勢チームは神戸市内のホテルを定宿にしていたが、この時は千葉県のチームが予約していた兵庫県宝塚市内の旅館に宿泊した。突然のキャンセルでは旅館も迷惑だろうという、配慮だった。木内さんは、練習の合間に選手たちを神戸のホテルに連れて行って食事会を開いた。「夏に来たらここに泊まるから」。貸し切りにするフロアの各部屋を見学させ、選手たちに夏のイメージをすりこんだ。

 センバツの試合は0―4で明石(兵庫)に初戦敗退した。だがこの5カ月後の夏、前評判がそれほどでもなかった常総学院が快進撃。決勝でPL学園(大阪)に敗れたものの、夏初出場で準優勝を果たした。小技を駆使して好投手を次々と攻略し、選手起用もピタリとはまった戦いぶりは「木内マジック」「常総旋風」「ミラクル常総」などと評された。

 木内さんはこう語っていた。「甲子園くらい良い所はないよ。遅延行為なんかなくて、俺らみたいな気が短いのは大好き。子どもらも言うことをよくきくようになるし、プライドができる。いい教育になるよ」

■甲子園と同じ軟らかい土に

 茨城から水戸商、藤代、常総学院の3校が出場した2001年の春センバツ。出場が決まった後、常総学院の専用グラウンドに、トラック4台分の土が搬入された。甲子園を想定してグラウンドの土を軟らかくするためだ。いつもの硬いグラウンドに比べると、打球のスピードが落ちる。より実戦に近い練習をするのが狙いだった。

 「甲子園で勝つことを考えると、こういうことも必要になる」。決勝で仙台育英(宮城)を7―6で破りセンバツ初優勝。2度目の全国制覇を遂げた。

 「子どもたちが力以上のものを出して勝ち上がり、甲子園に行く。それを取手二で覚えた」。力以上のものを出すために、最も必要なことは監督と選手の信頼関係だという。

 木内さんは甲子園について「1度目は修学旅行、2度目で校歌が聴きたくなって、3度目で周りが見えてくる」と話していた。春夏合わせて出場22回、40勝19敗。まさに高校野球一筋の人生だった。(小松重則)

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