あの夏の日本文理×中京大中京 九回2死6点差からの猛追 勝った堂林翔太も涙した
九回2死走者なし、点差は6。ドラマは、ここから始まった。
2009年の第91回大会決勝の日本文理(新潟)―中京大中京(愛知)は中京の10―4で九回へ。マウンドには六回途中から右翼手だった背番号1の堂林翔太が戻り、エースで最後を飾る舞台が整っていた。
頂点まであと1死から、予期せぬ展開になった。四球、二塁打、三塁打。ゲームセットかと思われた4番打者の邪飛は三塁手が目測を誤ってしまう。そして死球。再び投手交代したが、流れは変わらなかった。
四球のあと、6番・エース伊藤直輝が打席に入ると球場は伊藤コールと手拍子に包まれた。左前適時打。さらに左前適時打。三塁まで進んだ伊藤が生還すれば同点の場面になった。
球場が沸き返る中、最後も紙一重だった。若林尚希が引っ張った打球は鋭いライナー。三直。勝者は安堵(あんど)の涙、敗者が笑みを浮かべる幕引きとなった。
堂林はこの年の4月に左ひざを痛め、本格的に復帰したのは6月下旬。準々決勝からは3日連続の試合で、試合前は「とりあえずストライク入ってくれよ」と願いながらの登板だった。
大藤敏行監督(現享栄監督=愛知)も普段なら一度交代した投手をマウンドに戻すことはしないが、この日は違った。八回の攻撃時、ブルペンに行こうとする堂林に声をかけた。「何やっているんだ、と。すると『投げたい』ではなく、『投げます』って。勝負だから勝つのが一番だけど、高校野球はいろんな要素がある」。けがのあと、松葉杖をついてベンチから仲間を鼓舞する姿も見てきた。「あの場面で、堂林を投げさせない方が高校野球らしからぬことだと思った」
優勝の場内インタビューのとき、堂林は「最後まで投げたかったけれど、情けなくてすみません」と涙を流した。現プロ野球の広島でプレーする堂林は「夏前のけがで投げ込みも十分ではなかった。最後にツケが回ってきますよね」と振り返る。そして、「相手は低めを見極めるというより、甘い球は持っていかれると感じた。浮いた球は、しっかりと打ちにくると強く感じたチームでした」。
日本文理の大井道夫監督は栃木・宇都宮工時代の1959年、夏の甲子園で準優勝。守りのチームを支えた左腕エースは「打ち勝つことに憧れてね。監督になったとき、新潟の野球は消極的に見えた。走者が出たら必ず送る。いい投手がいると勝てるけれど、そうじゃないと厳しい」。練習の8割は打撃という攻撃的野球の真価を土壇場で発揮してみせた。
この大会で中京の優勝回数は全国で単独トップの7度になった。一方、日本文理は5回目の出場で初戦の勝利が夏の甲子園初勝利。決勝進出は、新潟県勢で春夏通じて初だった。
「準優勝だったから、新潟県の次の目標があるじゃないですか」。九回2死から四球を選び、反撃最初の走者になった切手孝太の言葉が心に残る。第101回大会までの優勝未経験は19県。そのうち8県にとっては、決勝もまだ見ぬ世界になっている。=敬称略(上山浩也)