あの夏の帝京×仙台育英 あと一歩で逃した東北勢初V…監督が後悔を晴らした翌年夏の出来事
平成になって最初の夏、仙台育英(宮城)はみちのくの夢に最接近した。
ともに無得点で迎えた九回裏の攻撃。2死から大山豊和が右中間を破る三塁打。帝京(東東京)のエース吉岡雄二に4打数無安打で2三振だったが、初球のスライダーを狙い打った。2年生は何度も右腕を突き上げた。
大山が27メートル先のホームベースを踏めば、サヨナラで春夏合わせて東北勢の初優勝。甲子園は沸き立った。
異様なムードの中、2番の茂木武が右打席へ。宮城県南部、白石市出身の2年生。身長はマウンドの吉岡より19センチ小さい167センチだ。3打数無安打。「代打だろうな、と思いました。その時点で負けですよね」。茂木が正直に明かす。
吉岡は八回まで4度も得点圏に走者を背負った。しかし、常に落ち着き払っていた。「ヒットにされたのは置きにいった球か、抜けた球だけ。100%で投げれば打たれない自信がありました」と振り返る。
初球は外角の直球。ストライク。次の打者はマウンドを守り続けてきた大越基だ。寮で同室の茂木に念を送った。「当たれ。デッドボールで俺に回せ」。2球目は胸元への直球。どん詰まりの飛球は一塁手の鹿野浩司のミットに収まった。疲れ切っていた大越は気持ちを切り替えられない。
十回表1死二、三塁のピンチで3番鹿野。内野陣がマウンドに集まり、輪が解けるとき、大越は「もう、疲れたべ」とつぶやいた。そして鹿野に決勝の2点タイムリーヒットを浴びた。
1972年から帝京を率いてきた前田三夫監督は派手に喜んだ。ベンチを飛び出し、両手を上げてジャンプ。「耐えて耐えて、やっとですから。勝ちを確信しましたね」。帝京が春夏合わせて初の頂点に立った。
負けた直後、大越に涙はなかった。1回戦から6試合を一人で投げきった。3回戦からは4連投。もう投げなくていい、との安心感があった。しかし閉会式が始まり、メダルの授与を待つとき、肩を震わせて泣き始めた。
両校選手の場内一周が始まった。戻ってきた大越に竹田利秋監督は言った。「お前のおかげでここまで来られた。胸を張ってマウンドの土を取ってこい」。思いもよらない温かい言葉に、大越は強気で戦い抜けなかった自分を責めた。
そして翌年夏の宮城大会決勝で仙台育英は東陵と対戦した。七回表に3点を先取されたが、その裏すぐに追いついた。そしてさらに2死三塁で1番の茂木だ。
1年前の甲子園決勝の九回と同じ、2死三塁だ。あのとき、竹田監督は茂木に何も声をかけなかった。それをずっと悔やんでいた。
だからこのとき、竹田監督は茂木を呼び止めた。「スタンドを見てみろ。こんなにたくさんの人に応援してもらって幸せだろ? 思い切って打ってこい」。この言葉を聞くなり、茂木はボロボロ泣いた。泣きながら決勝のタイムリーヒットを打った。
仙台育英の「あの夏」には、続きがあった。=敬称略(篠原大輔)