あの夏の早稲田実×池田 荒木大輔の「偶像」、一発で破壊したやまびこ打線
高校野球の一つの時代が終わろうとしていた。
七回、早稲田実(東東京)のエース荒木大輔はマウンドで苦笑いを浮かべながら、内野陣に言った。「もう、やめよう」。そして、マウンドを降り、右翼に向かった。
チームを5季連続の甲子園に導いた右腕が、チームメートの言葉を借りれば「打撃投手」のように打ち込まれていた。この時点で被安打12。甲子園17試合目にして、自己ワーストの7失点を喫していた。「どうしようもない力の差を感じた」。荒木は振り返る。
1980年代はじめ、高校球界の中心にはいつも荒木がいた。2年前の全国選手権で準優勝に輝くと、瞬く間に甲子園のアイドルに。「ダイスケギャル」と呼ばれるファンが、通学電車や練習場に集まった。「最初は女の子に騒がれるのはうれしかったけど、度が過ぎるとね……」。そのフィーバーぶりは高校野球の枠を超えた。
最終学年になった荒木が有終の美を飾るのか。それがこの大会の関心事の一つだった。メンバーは充実していた。主将は荒木とともに1年から出場している小沢章一。一つ下には後にプロになる板倉賢司と上福元勤がいた。順調に準々決勝に進んだがその前に立ちはだかるチームが現れた。徳島の山あいの県立校、池田だった。
早実とは対照的なチームだった。エースの畠山準は「東の荒木、西の畠山」と称されるほど。でも、畠山が甲子園にたどり着いたのはこの夏が初めてだった。
池田のメンバーにとって荒木はテレビの中の人だった。畠山は「俺より球が速いのかな」と思っていた。早実との対戦が決まると意気消沈した。畠山は「荒木が相手ですから、もう負けたって思いましたよ」。土産に早実のハンカチを買う選手もいた。「攻めダルマ」と呼ばれた蔦(つた)文也監督も覚悟を決めていた。「負けたらすぐ帰れるように、荷物をまとめておけ」と試合の朝に指示した。
でも、蓋(ふた)を開けると状況は一変する。一回、2年生の江上光治が荒木の決め球のカーブを右翼席に運び、2点を先制した。これが山あいの子どもたちが抱いていた荒木の「偶像」を破壊する。「打てるんじゃないのって雰囲気になりました」と一塁手宮本修二。5―2の六回には、試合前に「今日は本塁打を3本打つ」と豪語していた2年生の水野雄仁が快音を響かせた。水野が「史上最長に飛んだんじゃないんですか」と振り返り、荒木が「見たこともない」と思った当たりはバックスクリーン横へ。飛距離140メートルとも言われる本塁打だった。
荒木の最後の甲子園は苦いものとなった。八回にマウンドに戻ったものの、最終的に17安打10失点。「コールド負けにしてほしかった」と荒木。12点差の完敗だった。
荒木を打ち砕いた池田はこの大会で当時の大会記録となる1大会7本塁打、85安打、121塁打を記録し、初優勝を飾ることになる。当時革新的だった筋力トレーニングで鍛え上げた「やまびこ打線」は全国区に。翌春の選抜大会も制し、時代は池田へと変わっていった。=敬称略(小田邦彦)