あの夏の東邦×東洋大姫路 決勝サヨナラHRに泣いた15歳のバンビ「あれが人生の原点」
選手権大会で飛び出した1700本近い本塁打のうち、サヨナラ本塁打は22本に過ぎない。そのうち決勝での、つまり優勝を決めた一発はただの1本だけ。今から43年前、第59回大会(1977年)決勝で東洋大姫路(兵庫)の主将安井浩二が右越えに運んだ。打たれたのは、「バンビ」の愛称で女子高生の人気を一身に集めた東邦(愛知)の1年生エース坂本佳一。当時まだ15歳だった。
坂本は2年前、第100回大会の始球式で甲子園のマウンドに立った。スコアボードのスクリーンにサヨナラ本塁打の場面が映し出されるのを見て「あれが人生の原点」と言った。故障もあり、甲子園に出場できたのはあの夏の一度きりだった。「あれから全然活躍できずに突然野球をやめたので、今日は『坂本は元気にやっています』というつもりで投げました」
誰がつけたか「バンビ」というあだ名は「最初は弱っちくて嫌だった」と振り返ったが、その後、1年生投手が活躍するたびに「バンビ2世」が誕生した。
坂本の球を受けていた捕手の大矢正成は昨年の決勝戦、履正社(大阪)―星稜(石川)をNHKテレビの解説者としてバックネット裏で見守った。優勝した履正社の岡田龍生監督は、大矢が戦って敗れた東洋大姫路の当時1年生。初めて夏の決勝を解説した大矢は「ご縁を感じました」と語る。
大矢にあの夏のことを聞いたのは3年前のことだ。「一世を風靡(ふうび)した坂本とバッテリーを組んで決勝まで行き、非常にいい思い出を作れて感謝している。負け方も劇的だったしね」。大矢はそんな風に振り返っていた。
バンビ人気は準々決勝で熊本工を完封したあたりから沸騰したという。宿舎だった芦屋の竹園旅館の周辺を女子学生が取り囲み、坂本は一歩も外に出られない。同部屋だった大矢がおやつの買い出しに行った。
大矢は坂本の練習初日を忘れていなかった。ただ1人ユニホームでなく、赤のトレパンとアイボリーのトレシャツ姿だった。だが、キャッチボールの球筋が違った。阪口慶三監督(現大垣日大監督=岐阜)から「ちょっと受けてみろ」と言われてブルペンに入り、大矢はその1球目をはじいてしまう。「スピンがかかってベース板の上の伸びがすごい球だった」と記憶は鮮明だった。指先の感覚が繊細でスライダーやシュートもすぐに投げられるようになった。
サヨナラの場面。十回裏2死一、二塁。
明暗を分けたのは坂本が安井に投じた2ボール1ストライクからの4球目。外角へのスライダーがわずかに外れた。「坂本の表情がボール?って変わった」と大矢。坂本は「あれを見送った安井さんの勝ち。あの1球が勝敗を決めた」。外角低めを狙った5球目の直球が高めに浮き、痛打された。大矢は整列する坂本に「ようやったな。ありがとな」と声をかけた。
新型コロナウイルスの影響でいつもと違う夏だ。母校も部員以外ではあるが感染者が出て、独自大会の4回戦を棄権した。大矢自身は1年の時にチームが対外試合禁止処分を受けて「奈落の底に落とされた」経験がある。3年生の号泣が今でも耳に残っている。「我々の時とは事情が異なるが、球児の皆さんには野球が大好きだという気持ちを持ち続けて、今できることを全力で頑張って欲しい」。大矢は今夏、甲子園で開かれる交流試合でもマイクの前に座る。=敬称略(堀川貴弘)