愛媛)1975年甲子園決勝でサヨナラの惜敗 新居浜商
1975年の第57回選手権大会に出場した新居浜商。「来たからには1勝くらいしたいよな」。自分たちよりも体格の大きい他校の選手たちを見て、エースの村上博昭さん(61)はそう感じていた。ところが、村上さんは準決勝までの全4試合で計6失点と好投。本人たちの予想をも覆し、決勝へと進んだ。
相手は強豪・習志野(千葉)で、村上さんは後にプロ入りした小川淳司さん(当時3年)と投げ合った。八回には2死満塁で村上さんに打順が回ったが、「とにかく小川の球が速かった」と右飛に倒れ、同点のまま九回に入った。「あそこで打てていれば」と今も悔やんでいる。あの時、スタミナが減っていたことを自覚していた。
「抑えないと勝てないけど、延長になったらスタミナが持たない」。村上さんの不安が的中したのか、思わぬミスが出た。2死一、三塁の場面で捕手のサインはボール球。しかし、外角高めに甘く入ってしまった。
ボール球なので打たれないと思っていたのか、味方の反応が遅れ、打球は右翼手の手前に落ちた。「ほんの少し届かなかった」と村上さん。サヨナラ適時打となり、4―5で敗れた。
習志野の走者が拳を上げるのを横目で見ながら、村上さんはマウンドで崩れ落ちた。「みんなから『演技だろ』といつも笑われるけど、本当に自然に崩れた。それくらい悔しかった」
当時の監督は、後に法政大野球部監督も務めた鴨田勝雄さん。冬場は300メートル走を毎日100回繰り返し、2週間の合宿では浜辺を3時間走らされた。「まさに鬼。鬼監督でしたよ」
だが、試合後の監督は違った。「精いっぱいやった。胸張って返るぞ」と声をかけられ、試合後に泣いている姿を初めて見た。村上さんは「監督の優しさですよね。みんなつられて泣きました」と目を細める。
村上さんは言う。「当時のメンバーで話題になるのは、甲子園の思い出より、それまでの練習がきつかった話。今の球児にも、同じ目標を共有できる喜びを感じてほしい」(藤井宏太)