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野球一徹(4)智弁和歌山・高嶋仁名誉監督

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2018年12月15日02時00分

 1980年、智弁学園から智弁和歌山に移った。

 創部2年目で来るまで、1度も勝ったことないチームでした。僕が来るまでは40、50人くらい部員がおったんちゃうかな。でも僕が転勤になって和歌山に来たら、グラウンドに3人しかおらん。「他のやつはどないした」って言ったら、辞めたって。そらそうですよ、奈良のときに日本一の練習やってましたから。「あいつら野球好きやから呼んでこいや」って言って、集まったのが15人。そこからのスタートでした。でも練習についてこられないですよ。こんなんやっとったら誰も来んようになると思って頭を切りかえました。

 79年に春夏連覇した箕島の尾藤公監督から学んだ。

 尾藤さんにはほんまに世話になっとるんです。うちはキャッチボールもまともにできないチームでしたけど、練習試合を頼んだらやってくれた。3、4年くらいしてから定期戦になりました。15年くらい続いたんちゃうかな。

 なんで箕島が強いかって、やっぱり負けない野球というか、尾藤さんが作ったのはバッテリーを中心としたチームやったよね。派手さはないけど、負けない。3―1とか3―2でずーっと勝っていくんですよね。それは徹底的に参考にさせていただきました。

 87年、夏の甲子園に初出場を果たす。

 ただ、壁があるんです。夏の大会は、箕島が他のチームに負けるとうちが甲子園に出だしたけど、箕島とあたると負けてた。でも、(91年に)箕島をやっつけて初めて甲子園出たんですよ。外されたボールをスクイズする練習して、スクイズで点を入れて初めて勝ちました。夏は大体2年に1回のペースで甲子園に出られるようになって、3年連続、5年連続、8年連続で出た。壁を切り抜けたんです。

 でも、はじめは甲子園に5回行って全部初戦負けでした。甲子園のお客さんが、「おう、智弁和歌山、また負けにきたんか」って言うのが聞こえてくるんです。そうや、おれは甲子園に出るのに必死になっとったけど、甲子園で勝つために練習してこんかったなあって思った。うちの試合をぜんぶ見直して、箕島の野球も見直しました。結論としてやっぱり守り。箕島がなんで強いかっていうことですよね。バッテリーを中心とした守りのチームを目指そうとやって、甲子園で勝てるようになったんです。みんなそうですよ。やられてやられて、そこからはい上がっとるんですよ。