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大阪)1954年の泉陽、春夏快進撃 高校野球

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2018年6月14日03時00分

 1954年の春夏連続で堺の公立校が甲子園に出場したことを知る人は大阪でも多くないかもしれない。

 和室で木製バットやグラブの手入れをする選手たち。囲碁に興じる選手もいて、リラックスした雰囲気だ。撮影は第36回大阪大会の準々決勝があった7月30日。淀川工を破り、2日後の準決勝に駒を進めた。

 「とにかく道具を大事にせえ、と言われていたんです」。主将だった浅野勝(83)=大阪府岬町=は振り返る。大会期間中は校内の食堂2階にある合宿所に泊まり込み、球場と往復する生活。試合や練習の後は全員で野球用具を磨き上げた。

 53年秋、浅野たちの新チームは13人で始動した。創部6年目。太平洋戦争で堺は大空襲を受け、泉陽の校舎も全焼した。同校の野球部史は「戦後の焼跡(やけあと)の瓦礫(がれき)を片寄せながらボール投げを始めた」と記している。

 当時の強豪は、その夏の甲子園で8強入りした浪華商(現大体大浪商)。泉陽の故・中村金次監督は「個々の力は変わらない。頭脳的なプレーを」と選手を鼓舞。「少人数ながら実戦的な練習で、毎日、全力疾走した」(浅野)という。

 秋の大会で浪華商を破り、選抜大会に初出場。練習を重ねたスクイズで準々決勝の早実戦を制し、4強入りを果たした。仕事帰りの会社員らが練習をのぞきに来るようになったのを、浅野は覚えている。夏の大阪大会前、当時の朝日新聞は「激しい練習と数多くの試合を積み重ねて再び浪華商をおびやかしている」と評した。

 大阪大会も、浪華商に勝った八尾に準決勝で延長サヨナラ勝ちするなど上り詰め、夏の甲子園へ。初出場で8強入りし、泉陽の名が全国に知れ渡った。浅野は「選抜の経験もあってチームは自信に満ち、試合のたびに大きくなった」。

 だが以降、甲子園から遠ざかる。「自分たちも無名のチームながら勝ち上がった。今年も少しでも高みを目指してほしい」。浅野らOBは今月下旬、母校に赴き、後輩を激励するつもりだ。=敬称略(坂東慎一郎)