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逆転劇支えた「反骨心」甲子園春夏7度出場の愛知・大府

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2018年6月7日11時52分

 ■写真で振り返る東海の高校野球

 歴代の愛知県からの春夏の甲子園出場校には「私学4強」がいる西愛知(名古屋・尾張地区)の学校が多く名を連ねてきた。一方、東愛知(知多・三河地区)にあり、春4度、夏3度の甲子園出場を誇るのが、県立大府高校だ。

 1980年秋、県大会で初優勝してベンチ前で肩を組む選手2人の写真。一人は、のちにプロ野球・読売巨人軍の投手として活躍した槙原寛己(54)。もう一人は槙原とバッテリーを組み、のちに母校を指揮して4度の甲子園出場を果たした馬場茂(54)だ。

 この年、大府は創部2度目の夏の甲子園に出場。槙原、馬場が新3年生として迎えた秋の中部大会も優勝し、翌春の選抜大会に初出場した。チームの持ち味の一つだったのが、土壇場で逆転する粘り強さだった。

 「創部50年史」などによると、80年夏の愛知大会では、準々決勝で1点を追う九回2死から逆転サヨナラ勝ち。決勝は、私学4強の一角の享栄を3―0で破った。初の選抜出場につながった秋の中部大会も、準決勝で岐阜・中京商業(現中京学院大中京)に逆転勝ちしていた。

 実は、大府が夏の甲子園に初出場した1964年の愛知大会も、3回戦から決勝までの5試合すべてを逆転勝ちしていた。馬場は「私学の強豪校にも負けないという反骨心というか、精神的な強さがチームの土台にある」と振り返る。

 この「反骨心」を育てたのは、部の創始者であり、当時監督の澤正良(享年80歳)だったという。

 創部は1951年。当時はまだ町立の全校定時制高校として開校間もない時期で、部員13人からの出発だった。練習環境の確保に苦心しながらチーム作りを進めた。

 その澤が大事にしたのが、部訓でもある「野球選手である前に立派な高校生であれ」という精神だったという。馬場は「練習、生活両面で鍛えられた。チームの粘り強さにつながったのではないか」と話す。

 その心は、いまのチームにも根付く。昨夏、大府は初戦からの3試合をすべて逆転勝ち。普段から練習するグラウンドには、澤の言葉を刻んだ「克己(一番勝てないのは自分である)」という石碑が今も残る。馬場の教え子でもあり、現監督の野田雄仁(35)は「大府にとって大事な教え。今の選手たちに伝えていきたい」と話す。=敬称略(古庄暢)