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山口)運命変えたカーブ 津田恒美が天理戦で投じた1球

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2018年5月12日03時00分

 優れた投手には、運命を変える一球を投じる瞬間が訪れるものなのかも知れない。打者に一歩も引かない向こう気の強い投球で「炎のストッパー」と呼ばれ、プロ野球広島カープの守護神として一時代を築いた津田恒美(後に「恒実」に改名)。彼にとっての運命の一球は、間違いなくあの夏のあの一球だった。

 1978年、第60回大会の2回戦。エースで4番の津田を擁する南陽工は、天理(奈良)と対戦した。古豪を相手に臆したわけではないだろうが、この試合、津田はいつもと様子が違った。

 入学したばかりの頃は球が速いだけで制球に難があった。「人格者で最高の若者だが、スポーツマンとしては優しすぎた」と当時の監督、坂本昌穂が評する性格も短所になっていた。マウンドで一度崩れると、そこから立ち直れなかった。

 2年生の夏、大化けするきっかけを得た。山口大会の1回戦で完全試合を達成すると、簡単には崩れなくなった。マウンドでの立ち振る舞いも堂々として、同年代の中で注目を集める剛腕投手へと変身した。

 だが、この日は立ち上がりから調子が悪く、一回、二回と天理打線に二塁打を許した。同級生で捕手の国本正弘は「直球が走っていなかった」と振り返る。

 どうにか無失点でしのいで迎えた五回裏、1死走者なし。天理の8番打者が右打席に入った。初球はストライク。2球目、外角の直球を要求した国本のサインに、津田は珍しく首を振った。ならばカーブ。2度目のサインにうなずいた。

 国本はこのやり取りを今でも悔やむ。

 2年生の秋からバッテリーを組み、坂本の方針でいつも行動を共にした。遠征の宿舎では、他の選手たちは大部屋でも津田と国本だけは特別に2人部屋だった。「気心を通じさせて、津田が何を投げたがっているのか国本が感じ取れるように」

 その狙いがはまってか、津田が国本のサインを拒むことはほとんどなかった。「ええキャッチャーだったら、あそこでタイムをかけるのかな」。今年57歳になった国本は考えるが、当時は17歳。津田の心に立ったさざ波には気付けない。

 そうして投じられたカーブはほぼ真ん中へ。快音が響くと、打球は左翼のラッキーゾーンに吸い込まれていった。

 なぜ津田は直球を拒んだのか。「カーブを投げる方が少しは楽。集中力が切れていたか、体のだるさが選ばせたのかな」と坂本は思う。この一球で失った1点が決勝点となり、津田や国本たちの夏は終わった。

 試合後の取材に「あそこは、やはり直球でいけばよかった」と悔やんだ津田。プロ野球選手になってからは、ピンチになればなるほど、相手が強打者であればあるほど、闘志をむき出しにして、頑(かたく)ななまでに直球勝負を挑み、相手をねじ伏せた。

 「弱気は最大の敵」。津田があの一球からも学んだ教訓は、少年を勝負師へと成長させていった。=敬称略(藤野隆晃)

 ■第60回大会 どんな夏

 60回の記念大会だったこの年から、選手権大会に各都道府県から1チームずつ(東京と北海道は2チームずつ)が代表として出場することになった。大会を制したのはPL学園(大阪)。後に広島カープに入団した西田真二を中軸に勝ち進み、初優勝に輝いた。準決勝では4点、決勝では3点を九回裏に挙げる粘り強さが光った。