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広島)「静寂」の中、背番号1の野手が放った三塁打

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2018年5月15日03時00分

 1960年、広島出身の池田勇人が首相に就き、「所得倍増計画」を掲げた。終戦から17年。東京五輪開催を控え好景気に沸く62年夏、甲子園1回戦の広陵の対戦相手は沖縄(現沖縄尚学)だった。沖縄返還の10年前のことだ。

 夏の大会6度目の広陵には被爆者もいた。沖縄のエースは安仁屋宗八(元広島カープ)。当時は都道府県代表制ではなく、南九州大会で優勝し、沖縄勢として初めて実力で甲子園の土を踏んだ。

 広陵主将の山崎(旧姓高野)正美は「特別な意味がある一戦。複雑な思いだった」。

     ◇

 8月13日、試合当日。アルプス席に広陵の応援団は数百人。球場を埋めたのは沖縄本島や、全国各地の沖縄出身者らだった。

 広陵先発の柳楽正昭がプレートに足をのせた瞬間、試合開始を待ち望んだ観衆から「ウォー」と雄たけびが上がった。ボール球には、拍手が起きた。

 広陵打線は「伸びがあり、手元で浮き上がって見える」という安仁屋の直球を打ちあぐねた。だが、四回に右翼手、梶野勲の適時打で先制。五、六回にも連打や四球で計3点を加えた。

 沖縄も猛追する。六回、球が高めに浮き始めた柳楽を捉えて無死一、二塁とすると、続く犠打が野選となり満塁。さらに適時打で1点を返した。柳楽は「指笛や踊りで観客はお祭り騒ぎ。集中できず制球が乱れた」。次打者に死球を与え、降板した。救援投手も打たれ、同点とされた。

 青ざめる広陵選手のなかで梶野はひとり冷静だった。2歳の時に被爆した。爆風で吹き飛ばされた衝撃で、聴力をほぼ失った。試合中は、打球音が響くので補聴器を着けなかった。「大声援を聞かなくてすむ」とも考えた。

 七回、2死一塁で梶野が打席に立つ。走者は二盗。好機だ。静寂の中で考えを巡らせた。四回の適時打は、安仁屋の真ん中の球を捉えた。「次は外角で勝負するはず」。狙い通り、外角の直球を振り抜く。手応えは十分だった。打球は右翼線へ飛び、三塁打。走者は悠々生還した。

 翌14日付朝日新聞社会面は「戦禍にめげず、たくましく オキナワとヒロシマ“平和の戦い”」との見出しで、両校をたたえた。

 決勝打を放った梶野は、背番号「1」を付けていた。聴力面で守備の連係プレーに不安があり、投手だったが甲子園では外野に回った。仲間はエースのこれまでの奮闘に報いようと「1」を委ねていた。

     ◇

 安仁屋に悔しさはなかった。「甲子園だけでなく、船や汽車で見たことのない景色がある場所に行けただけで満足だった」。沖縄の高校出身者初のプロ野球選手としてカープに入団。18年間で119勝を挙げた。「あの時から縁があったのかな。広島が僕を育ててくれた」。今もこの地に自宅を構える。

 5年ほど前、太田川の河川敷で柳楽は散歩する安仁屋を偶然見かけた。「広陵の柳楽です」と声をかけると、安仁屋は「お久しぶりです」と応じた。

 以来、古希を過ぎた広陵の元球児たちと安仁屋は年に1回、酒席を共にする。あの打席、あの1球……。当時の話題は尽きない。山崎は言う。「半世紀経っても、平和のもとに戦った僕らの青春が色あせることはありません」

=敬称略(原田悠自)