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宮崎)1981年夏の加藤誉昭さんを振り返る 高校野球

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2018年6月14日03時00分

 サヨナラを含む3本塁打で甲子園を沸かせた加藤誉昭(たかあき)さん(55)が「宮崎ベストナイン」の外野手の一人に選ばれた。1大会3本塁打は今も県勢の最多記録。「グラウンドを離れても、野球がくっついてくる。あの3本は大きかったな」

 1981年夏の甲子園3回戦。初出場の都城商は岡谷工(長野)と対戦した。試合は投手戦となり、1―1で迎えた延長十二回に打席が回ってきた。

 「集中しきっていて、周りが見えていなかった。初めての感覚だった」。左打席に向かう途中、捕手の前を横切り審判に注意を受けた。頭にあったのは狙い球のことだけだった。

 2球目のひざ元の変化球。真芯でとらえたためか、体は球の重みを感じなかった。打球は右翼ポール際へ飛びこんだ。8強進出を決めるサヨナラの一打は、「うれしかったし、延長戦までもつれたからやっと終わったとか、力を示せて『どうだ』とか、いろんな思いが入り交じってた」。

 次の準々決勝で敗れたが、凱旋(がいせん)すると大騒ぎだった。甲子園での3本塁打とその打撃フォームから「王2世」と騒がれ、遠縁を名乗る見ず知らずの人が家に押しかけたという。

 この年のドラフトでは、当時、宮崎県出身の武上四郎さんが監督を務めていたヤクルトから2位指名を受けた。「田舎の人間でしたからね。プロに行ったらすぐ試合に出て、テレビに映るんだって、そう思っていました」

 鼻息荒く飛び込んだプロの世界だったが、日の目を見ることはなかった。1軍での生涯成績は8打数無安打、5三振。「プロの世界では失敗した。体力、体格、持っているものが違った」。88年、現役を退いた。

 引退後は、様々な仕事を経験した。酒の配送業、建築関係の専門書の営業……。それでも、甲子園での活躍話をきっかけに、野球専門誌を手掛ける出版社に誘われたり、野球の個人レッスンを頼まれたりと、野球との縁が切れることはなかった。

 2006年には都城市に戻り、小中学生向けの野球塾「ジュニアベースボールクリニック 野球塾ARCH」を開いた。8年間で約200人を指導した。その中には中日の柳裕也投手や、09年に母校都城商が甲子園に出場した時の主将、冨永圭太さんがいた。

 現在は、神宮球場(東京)近くの居酒屋で働く。ソムリエの資格を持つ妻と飲食店を開くのが目標という。

 「81年夏の県予選では、ほとんどヒットが打てなかった。だから明日は打つと毎日星空の下で素振りをした。それで甲子園で打てて自信になった。50歳を過ぎても、目標をもってやればできると思えるのは高校野球のおかげ」(松本真弥)