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広島)復興途上の街を熱狂させた泥臭いヒーローたち

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2018年4月17日03時00分

 原爆投下から12年。焼け野原となった街で、川辺で、手製のバットを振っていた少年たちが、甲子園で頂点に駆け上がった。

 1957年、第39回大会への切符をつかんだのは、広島商だった。当時、街の中心部では百貨店やビルの再建が進み、7月には爆心地そばに広島市民球場が完成。一方、まだ未舗装の道も多く、川沿いにはバラックが立ち並んでいた。

 この年、広島商の前評判は、高くなかった。だが、初戦の育英(兵庫)戦を延長サヨナラで制すと、順調に勝ち上がる。

 8月20日、決勝。

 相手は、王貞治を擁する早稲田実(東京)を準々決勝で破った法政二(神奈川)。上質なユニホームに、オレンジ色のライン入りストッキング姿。試合前のボール回しは、流れるようだった。二塁手の佐々木明三(めいぞう)(78)はあぜんとした。「広商の野球は泥臭いが、相手は洗練されていた。圧倒されました」

 両者無得点で迎えた三回裏、1死一塁。その佐々木が、外角への球を強く振り抜いた。白球は右翼線を抜け、フェンスにぶち当たる。三塁まで一気に駆けた。一塁走者がかえる会心の先制三塁打だった。

 2死満塁から、2年生エース曽根弘信(77)も右前適時打で続く。バットが球を捉えた瞬間、「文句なし」の手応えを感じた。野手の悪送球も誘い、佐々木ら2人が生還。この回一気に3点をリードした。

 法政二が攻勢に出たのは六回表。1死一、二塁。勝負どころと判断した曽根は、白球を握った右手首を背中の後ろで2、3回曲げてみせた。「合図」を受け、遊撃手の河野聖四郎が二塁へ駆け込んだ。曽根はリードを広げていた二塁走者を刺し、次打者も凡打に打ち取って切り抜けた。

 相手のリードが甘かったり、追い詰められたりした時に確実にアウトをとろうと、初夏から練習していた策だった。手の内をさらさぬよう、甲子園では一度も使わないでいた。曽根は「試合のキーポイントだった。あそこで失点していたら、ガタガタに崩れていたかも」と振り返る。

 九回に犠飛で1点を奪われたが、既に2死無走者。曽根は危なげなく最後の打者を右飛とした。

 戦後初の広島勢優勝。けれどその瞬間、彼らに笑顔はなかった。黙々と整列し、一礼した。

 その理由を主将だった迫田穆成(よしあき)(78、現如水館監督)はこう語る。「はしゃいだら、いい試合をした相手に失礼。それが教えられてきた広商精神だった」

 2日後の昼、選手を乗せた列車は広島に入った。どの駅も、声援を送る人でごった返していた。

 広島駅到着は午後2時半ごろ。「改札から出られないほどの人で、裏口から抜け出ました」(佐々木)。

 戦前から使われてきた優勝旗は、ボロボロで折れそうだった。迫田は、折れないよう固く握りしめ、出迎えた人たちにもみくちゃにされながら、部員らと駅前を歩いた。

 その年の暮れの朝日新聞は、当時の様子をこう伝える。「選手の名前を書いた三百余本のノボリが立てられ、三万人の市民がつめかけた」

 復興途上の広島に誕生した「ヒーロー」。広島商の「泥臭い」選手たちが、人々を勇気づけたのは間違いない。

 迫田は当時をこう振り返る。「あんな場面、見たことなかった。18歳の自分がその当事者になれた。味わったことのない感動でした」。曽根も、懐かしそうに言った。「満足な食事がとれないこともあったが、あれだけ皆さんが喜んでくれた。報われました」

       (敬称略)(橋本拓樹)

 ■イニング

第39回全国高校野球選手権大会

 決勝(1957年8月20日)

 法政二 000 000 001 1

 広島商 003 000 00× 3