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石ごろごろ、グラウンド作りで始まった球史 京都・乙訓

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2018年3月14日14時44分

 第90回を迎える春の選抜高校野球。京の多くの球児が球史に名を刻んできた。1924年の第1回大会の参加は8チームで、うち1校が立命館中だった。龍谷大平安の出場は、前身校時代を含め全国最多の40回。2014年には頂点に立った。23日開幕の今回は、創部54年目の京都府立乙訓(おとくに、長岡京市)が春夏通じて初めての甲子園に挑む。

 乙訓は1964年4月に開校。長岡競馬場跡に建設中の新校舎が完成しておらず、1学期の間は右京区の府立桂高校分校舎(現在は閉鎖)を使っていた。1期生の小野忠雄さん(69)=愛媛県伊予市=は、いち早く野球がしたくて、桂の主将に頼んで練習に加えてもらった。

 野球部は開校5カ月後の9月にできた。部員は小野さんら14人だった。競馬場跡である分、右翼130メートル、左翼100メートルの広い野球場が確保できたが、石がごろごろ。中には拳より大きいものもあった。約3時間の練習の半分はグラウンドの整備に充てた。手で石を拾い、土を一輪車で運び入れてトンボでならした。

 ようやく内野ノックができたのは11月。地面はでこぼこで、バウンドが不規則に変わる。選手は上半身で受け止め、胸や腕はあざだらけに。小野さんは「手作りのグラウンドができて野球ができる。うれしくて細かいことは気にならなかった」と振り返る。

 土も硬かった。硬球の傷みは激しいが、部の予算が少なくて買い替えられない。縫い目が破れると、自宅で縫い直した。放課後すぐに練習に入れるよう、休み時間も修理を続けた。

 乙訓の公式戦デビューは65年夏の京都大会。秋の大会で勝利したことはあるが、夏は3年連続で初戦負けした。選手は遠征して強豪と対戦し、力と自信をつけたいと思うようになった。

 エースだった3期生の早川晴夫さん(67)=上京区=は、冬休み中の練習がなかったことを覚えている。理由は、遠征費を稼ぐためのアルバイトや家業の手伝い。早川さんは毎日、空のドラム缶を運んで積むアルバイトをした。

 早川さんが3年生に上がった5月、冬休みに稼いだ分で和歌山に1泊2日で遠征した。戦前に2回、夏の大会で全国優勝した和歌山市の県立桐蔭(とういん)高校(優勝時は和歌山中)とも対戦した。「創部後初の本格的な遠征だったし、強豪校と試合ができてうれしかった」

 早川さんはこの年の夏、勢いに乗って準々決勝まで進んだ。「50年経っても忘れない」というのがその準々決勝。戦後初期の48年の選抜で全国優勝した中京区の市立西京商(優勝時は京都一商、現・西京)との試合だ。

 3点リードで迎えた九回表2死。走者なし。早川さんがつかまった。一気に6点返され、逆転負け。悔しさでいっぱいだった。10年以上経ってやっと、「創部4年目で8強はすごい。選手層も環境も予算も十分ではなかったのに」と思えるようになった。

 今回の選抜出場を決めた後輩に、1期生の小野さんは感謝している。「OBみんなの夢をかなえてくれてありがとう。グラウンド作りから始め、一歩ずつ進んできた半世紀分の思いや努力も背負って、初出場でも頂点をめざしてほしい」(川村貴大)