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秋田の50回大会史 秋田中に猛烈な対抗意識の秋田商

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2018年1月19日13時00分

 ■独占は終わり 全県で争い

 〈アクセンクトウ〉 秋田の高校野球は、大正4年の第1回大会全校中等野球大会の開催とともに開花した。秋田中(現秋田高)が予選なしの招待で、豊中球場にコマを進めた。「東北地方からの参加がなければ全国大会の体裁が整わない。それで招待されたのだ」――ぐらいにしか見られなかった秋田中だったが、東海代表の山田中、関東代表早実を連破して決勝に進んだ。相手は京津代表京都二中。試合は8月23日午後2時に始った。

 秋田のまちはわきにわき、校長はじめたくさんの職員、生徒は学校につめかけ、勝利の電報を待ちわびた。だが、午後8時ごろ届けられたのは悲報だった。

 「アクセンクトウ 一三カイ 二タイ一 キヨウト二チユウニヤブラル」

 長崎広―渡部純司のバッテリーが活躍したが渡部は「決勝にいけるとは考えてもいなかった。無欲の勝利だ」といい、いまも野球への情熱をけさず秋田大付属球場の管理人として、後輩を暖かく見守っている。以来、同校の全国大会出場は13回を数える。

 その前史は明治33年にさかのぼる。知事武田千代三郎が優勝カップを寄贈して大いに野球を奨励した。参加資格は無制限でクラブあり、学校あり。秋田中は第1回から参加し、35―36年から横手中(現横手高)、大館中(現大館鳳鳴高)もこれに加わった。

 ところが、この争奪戦は41年武道好きの知事森正隆の命令で中止、大正元年の知事秦豊助によって解禁された。知事の好みが野球の存否を左右した時代。秋田中の全国大会進出は、解禁後四年目のことだった。

 〈エース四年間〉 大正9年創立の秋田商は、14年早くも甲子園に進出。応援団の乱闘事件もおりまぜて、秋田中に対し猛烈な対抗意識をもやす。

 戦前この対立が最高潮に達したのが昭和6年からの5年間だ。中学の投手梅崎作太郎(東鉄・戦死)は技巧派で5年から9年まで、商業の赤根谷飛雄太郎(法大・東急)は剛球派で6年から10年まで、それぞれ在学した。実力は伯仲だったが、伝統の差か、中学は6年から9年まで甲子園出場を独占、梅崎がこの四年間マウンドを守った。とくに9年は準決勝に進み、藤村富美男の投げる呉港中に敗れるまでがんばった。

 このころの選手に、いずれも法大に進み、東京六大学で活躍した山谷喜志夫、武田武、加賀谷幸次郎らがいる。

 〈ブルペン〉 梅崎の卒業後、ようやく念願の甲子園出場を果した赤根谷は、昭和27年プロの世界と別れて郷里に帰り、秋田商監督に就任した。28年からの4年間に3回甲子園出場の秋田高打倒を目ざすことになったのも宿命。嵯峨健四郎(巨人)は「きびしい監督で、徹底的にたたきこまれた。今でも私のフォームを、赤根谷さんそっくりだという人があるほどだ」という。

 31年6月赤根谷は青森球場で倒れた。脳出血。監督を後進に譲ったが不屈の彼は容体を持ちなおすと、自宅の庭にブルペンをつくり、バッテリーを呼寄せて指導した。口も体不自由だが、情熱は高かった。サンケイのエース石戸四六も、このブルペンに通った組だ。いまはこの自宅指導もやめ静養中。52歳。

 そして秋田商は33、35、36年甲子園に出場、戦後の黄金時代を築く。赤根谷の就任からこのころまでの選手に、嵯峨、石戸のほか、三浦清(慶大)佐々木吉郎(太洋)今川敬三(早大、現秋田商監督)らがいる。

 〈伝統と新興〉 秋田高は一昨年を最後に戦後も5回甲子園に出場し、いずれも慶大に進んだ本多秀男(日石)高橋捷郎(東洋レーヨン)成田憲明(現役)、立教大からサンケイの小西秀朗らの好選手を生み、伝統を誇った。ところが昨年の県予選は2回戦でコールド負けという空前の不成績。先輩たちはガク然として、いま再建に懸命だ。

 このできごとに象徴されるように、秋田高、秋田商の独占は、どうやら終りをつげたようだ。まず昭和38年能代高が、市始って以来の大歓呼に送られて甲子園へ。このときの投手簾内政雄はサンケイ。続く39年が秋田工。昨年が本荘高。そしてことしは大館商、秋田市高もチャンスをうかがう。時代が移り、秋田の高校野球はようやく前県で争うようになった。(1968年6月12日掲載)