メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

岡山の50回大会史 球場大混乱、大もめした初代表決定

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • メール

2018年1月11日17時24分

 ■理屈好きがブレーキに

 〈安部磯雄が手ほどき〉 明治19年の暮れ、同志社からキリスト教伝道のため安部磯雄(当時22歳)が岡山に来た。安部は翌年4月から岡山教会、そして山陽英和女学校(現山陽女子高)を経て渡米、明治27年、帰朝と同時に英語教師として関西中学の教壇に立った。のちに早稲田大学に移り、“学生野球の父”といわれた。

 明治28年4月、関西中学に野球部が創設され、部長に迎えられた安部はルールの翻訳から、審判まで引受けたが野球指導は岡山がはじめてということを知る人は少ない。

 〈お山の大将〉 岡山はこと野球に関しては、西隣の広島や対岸の四国、東の関西地区に比べていっこうにのびなかった。もちろん夏の予選には第1回大会から出場しているが、広島勢に勝てない。「テニス、柔、剣道などの個人競技には強いが、チームワークを必要とする野球は、小理屈ばかりいう“お山の大将”が多く、不向きじゃなかったのかな――」と菊池三郎(関西中―早大、岡山県野球協会初代理事長)はいう。

 〈大もめした初代表〉 大正10年8月4日。六高球場は岡山一中と広陵中の決勝戦で超満員。広陵が6―4とリードした6回、一中は一死満塁で五番の今井栄が右越えに大飛球を打った。打球は右翼の土手を越え松の木に当ってはね返った。逆転満塁本塁打、いやファウルだ、観衆の一人が松の木に登り「ここに当った」と本塁打を主張。球場全体は大混乱となり試合続行は不能となった。協議の結果「もし観客がさわいだら、一中は棄権」という一札を入れて、翌5日再試合、やっと一中が代表となった。出ると負けだった岡山県は、こうしてはじめて広島県に勝ったのである。今井栄は現在山口県長門市に旅館業を営む。

 〈戦前の選手たち〉 島村鉄也(スポーツ評論家)と岡崎孝平(岡崎不動産社長)は当時内村祐之投手を擁して黄金時代をつくっていた一高の一塁手と遊撃手。夏の予選が近づくと母校一中に帰って「広島の野球」に打ち勝とうと現役選手といっしょに白球を追っていた。「岡中が強かったのは、先輩たちが熱心だったからですよ」大正2年、近県連合野球大会で優勝したときの選手、大森尚則(川崎製鉄相談役)はいう。また大正10年はじめて鳴尾大会に出たチームの補欠に、慶大に進み早慶戦の花形となった楠見幸信(国鉄スワローズ総監督―弘済建物保険課長)が二塁手としてはいっている。

 岡山一中と対抗した関西中では、明大の捕手から阪急、東映の監督、のちにパ・リーグの審判長を勤めた井野川利春、巨人軍が第一回に渡米したときの二塁手だった故津田四郎、名古屋金鯱軍の三塁手黒田健吾(日本貨物検数嘱託)が代表される。

 〈変った野球分布図〉 戦後、岡山の野球も形を変えながら歩み出した。二中時代最後の選手に早大―日本鋼管と進んだ宮原実捕手がいる。代って倉敷工、岡山東(現岡山東商)などがのびてきた。昭和24年(31回大会)の倉敷工は現監督の小沢馨投手の好投で小倉高の三連勝をはばみ準決勝まで進む。このときの監督が三宅宅三(玉島商―大毎一塁手)で捕手の藤沢新六(倉敷紡績本社)は大会三本塁打の記録をつくった。琴浦商(南海高の前身)には剛球投手といわれた東谷夏樹(現津山商監督)、この南海高から投手の田代照勝(セ・審判)、三宅培司三塁手(現阪神コーチ)が出ている。

 二年後には岡山東から秋山登―土井淳(明大―大洋)のバッテリーが、40年には岡山県高校野球史を飾る春の選抜野球優勝が平松政次(大洋投手)の右腕から生み出されている。関西高からは、大杉勝男一塁手、森安敏明投手(東映)。このほか石井茂雄投手(勝山高―阪急)横溝桂外野手(岡山東商―広島東洋)菱川章外野手(倉敷工―中日)槌田誠捕手(倉敷工―巨人)などプロ球界に進んだ人は多い。社会人野球にも、枝松道輝(岡山東商―立教大―日本石油)林田真人(岡山東商―早大―倉レ岡山)ら好選手が名を連ね、近年は宿敵広島勢とも肩を並べられるようになった。「どうして岡山は広島に勝てないのだろう」と首をかしげさせたのも、昔話になりそうである。(1968年5月1日掲載)