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縁の下の力持ちのマネジャー チームのためがむしゃらに

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2016年11月22日05時50分

 今年、夏の甲子園で20周年を迎えた光景がある。1996年、第78回大会から登録選手とは別に男女問わず記録員が入れるようになった。解禁元年には9校の女子マネジャーの姿がベンチに。その一人が波佐見(長崎)の福嶋(旧姓・井村)純子さん(37)。2年生だった。

 一つ上の代は不在、4人いた同級生もやめていた。新入生が入るまで1人の時期も耐え、長崎大会決勝の最中、監督から「勝ったら甲子園のベンチだよ」と告げられた。「ベンチを外れる3年生部員もいたのに、まさか私がって。今まで入れなかったからうれしかったですね」

 春夏通じて初の甲子園となった波佐見は、8強まで勝ち上がった。最後は準優勝した熊本工に1点差で惜敗。「負けても私は試合をしていないのだから泣いたらいかんと。それがマネジャーだった自分の中の決まりでした」。2人の母になった今も、制服につけた記録員のリボンは大切にとってある。

 マネジャーはサポート役だけにとどまらない。時に主役となってチームを引っ張る。

 〈野球生活 THE END。甲子園の夢破れ去った〉。スコアブックに鉛筆でつづったのが鳴門(徳島)のマネジャーだった斎藤達郎さん。55年の南四国大会準決勝で高知商に0―1で敗れた。それから61年。スコアブックは茶色くなったが「今も負けた7月31日は好かん」と苦笑する。

 カンパを募って新聞部を立ち上げた手腕を買われたのか、校長からマネジャーに指名された。当時の鳴門は50年の選手権準優勝、51年選抜優勝、52年選抜準優勝と黄金期の直後。遠征のバスや宿の手配、記者対応などを一手に任された。試合では監督に代わってサインを出すこともあった。

 登録選手は14人の時代。「監督が選手を1人のけてまで私をベンチに入れてくれた。やりがいがあった」。意気に感じ、私生活でも「鬼のマネジャー」として目を光らせた。卒業後は徳島バスに就職。鳴門市議も4期務めた。「マネジャーをしたから私の人生がある」

   ◇

 斎藤さんへの取材は10月30日だったが、今月12日、78歳で急逝された。ご遺族によると掲載を心待ちにしていたという。

 チームのためにがむしゃらに打ち込んだ思い出は、何年たっても色あせず輝いていた。(藤田絢子)