• このエントリーをはてなブックマークに追加

名勝負盛り上げたブラスバンドの音色 多様化する応援曲

  • このエントリーをはてなブックマークに追加
  • メール

2016年5月24日19時00分

写真・図版

  • 写真・図版
  • 写真・図版
  • 写真・図版

 甲子園を熱くする、アルプス席からの大音響。一つ一つの音色に思いが詰まる。

 大迫敏一さん(73)=東京都=は1958年の夏を忘れない。第40回全国選手権に鹿児島玉龍が出場した。当時1年で吹奏楽部員。メンバーと応援の生徒、引率教員を含めて30人足らずで陣取った。対する法政二(神奈川)は数百人規模の応援団。楽器の数、曲のレパートリーともに圧倒された。

 だからこそ燃えた。試合は3―9で敗れたが、郷土民謡「おはら節」、校歌など5、6曲を、息が続く限りトロンボーンで吹き鳴らした。

 苦学して大学卒業後、外資系商社に。人間関係に苦しんだが、「一度でも晴れ舞台にいた自分は幸せ」。30歳を過ぎて郵便局員になり、定年まで勤めた。「あの夏の思い出は、苦しい思いをするほどに自分の心に占める割合が大きくなる」

 「ブラスバンド」は本来、金管楽器が中心。だが、野球応援では木管楽器も加わることが一般的だ。その音色は味方を鼓舞し、ときに相手への脅威となる。現在のような演奏主体の応援スタイルになったのは「昭和40(1965)年以降」と高校野球の応援に詳しいライターの梅津有希子さん。東京六大学の影響が大きい。

 早大が「コンバットマーチ」、慶大が「ダッシュケイオウ」を演奏し、全国の高校に広まった。70年代半ばごろから明大が使った山本リンダの「狙いうち」がはやり、歌謡曲も一般的に。習志野(千葉)、PL学園(大阪)、智弁和歌山など名物の曲を持つ強豪校が増えた。梅津さんは「強い学校が演奏すると『験担ぎ』の意味で他校の選手が要望し、さらに広まるようです」。

 甲子園は球児だけの舞台ではない。アルプスで奏でる夢を追い続けた人がいる。「神様が最高の機会を与えてくれた」とは、寺松雄一郎さん(43)。2001年の第83回大会で岐阜三田(現岐阜城北)の応援スタンドにいた。

 県内の別の公立校出身。OBとして指導を続けていたことが縁で、甲子園出場を決めた他校から、助っ人として声をかけられた。

 高校野球の応援がしたくて中学時代からトランペット一筋。28歳だった当時までずっと吹き続けていた。初戦の相手は東洋大姫路(兵庫)。プロレスラーのスタン・ハンセンの入場曲など10曲を、アドリブも交えながら存分に吹き、楽しんだ。試合には負けたが、悲壮感はなかった。「選手と一緒に戦い、試合を構成している感覚だった」

 誰もが輝ける場所として、あの日の思い出が心に残る。(有田憲一)