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茨城大会ニュース

戦時下「幻の甲子園」、球児の心は同じ 水戸商OB語る

2010年08月15日

 太平洋戦争中の1942年に、当時の文部省の主催で開かれた「夏の甲子園」は、戦時色が色濃く反映された大会だった。公式記録に残っておらず、「幻の甲子園」ともいわれる大会に、水戸商が北関東代表で出場した。その模様を報じる新聞には、今と変わらずはつらつとプレーする球児たちの姿がある。戦時下で、彼らはどんな思いを胸にプレーをしていたのだろうか。

写真1942年に開かれた「幻の甲子園」に出場した上田裕さん=水戸市内
写真朝日新聞に掲載された水戸商―徳島商の試合写真(常陸太田市の石川拓郎さん提供)

 水戸市に住む上田裕(ひろし)さん(85)は、水戸商の左翼手として参加した。エースは、後に早稲田大野球部監督を務め野球殿堂入りを果たした剛腕、故石井藤吉郎さん。強打も自慢で、東日本の強豪として注目を集めていた。

 上田さんは「大きなグラウンドに、周りを取り囲むスタンド。甲子園は別世界だった。たまげたね」と振り返る。

 戦時下での大会。選手のことは「選士」と表現された。けがをしても交代できない。死力を尽くして戦うという戦時色が、高校野球にも反映されていた。

 水戸商は1回戦で地元の滝川中を破り、2回戦で徳島商と戦った。

 試合中、上田さんをアクシデントが襲った。本塁に突入する際、捕手に利き手の右手を踏まれたのだ。6針も縫う切り傷を負ったが、交代はできない。打席では左手一本でバットを振った。守備では、まともに球を投げることもできなかった。それでも、包帯を巻いてプレーを続けた。投手戦の末、0―1で惜敗した。

 戦時下でどんな思いで、野球に取り組んでいたのか。

 「とにかく、無我夢中で練習していた。正月休みも夏休みもなく、365日野球漬け。戦時下だからどうとか、考えるゆとりはなかった」と上田さん。

 練習では、千本もノックを受け、倒れたら頭から水をかけられた。暗くなりボールが見えなくなると、その後はひたすらランニング。練習後は、1人ずつ「声出し」をさせられた。

 上田さんは、大会後、神奈川県横須賀市の陸軍に入隊し、終戦まで軍事訓練に明け暮れた。防空壕(ごう)掘りなどを競わされた。

 「厳しい野球の練習をしていたから、どんな訓練も苦しいということはなかった」

 甲子園で上田さんとともに戦った選手の中には、出征し、戦死した人もいる。戦況が悪化し、「幻の甲子園」後、終戦まで全国大会が開かれることはなかった。

 今夏で92回の歴史を刻む全国高校野球選手権の記録に1942年の夏はない。水戸商が甲子園で戦ったことも、徳島商が全国制覇を果たしたことも公式記録には残されていない。

 それでも上田さんは「記録に残っていなくても、私たちが甲子園の試合に出たことには変わりはない。野球があったから今の自分があると思う。苦あれば楽ありだから」としみじみ語った。(今直也)


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